重度障害議員を「迷惑」視する社会を変える――特別扱いではない「合理的配慮」とは?

文=松波めぐみ
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3.バッシングはなぜ間違いか 

 両議員の当選が決まった時、「重度障害者が国会に入り、たとえば審議を止めたりするのは『迷惑行為』だ。本来そういう立場の方の声を(視察や陳情等で)聴きとって政治に反映するのが国会議員の仕事だ」という趣旨のツイートに約5万件の「いいね」がついていた。これはあからさまなヘイトスピーチとは違って、「良識ある市民」然とした投稿だから、いっそう深刻に感じた[5]。

 いま解説したように、バリア除去や予算措置は、参議院(国)がすみやかに責任をもって行うのが当然なのであって「例外的な特別扱い」ではない。

◆「迷惑行為」という言葉の背後に何がある?

 「迷惑行為」という言葉は、どのような場面を想定してのものだろうか。障害のある人の中には、移動や発言の際に時間がかかる人がいる。例えば舩後議員は、文字盤を使用し、目などのわずかな動きから、一字一字を支援者が読み取り、確認しながらセンテンスを作っていって発言する。その様子に対し、慣れていないために戸惑うことはあるだろう。だが「待つのは嫌だ」「迷惑行為だ」と口にするのは、おぞましいほどの健常者のエゴだ。

 ALSに限らず、発声・発語に困難がある人は、自身の声を「聞いてもらえない」ことで悔しい思いをしている。話そうとしても遮られたら、どんな気持ちがするだろう。そこに想像力をはたらかせてみてほしい。これまでそうした場面に立ち会うことがなかったら最初は驚く。だが、慣れればいいだけだ。「待つ」のが当然だということに社会全体の合意がつくられていってほしい[6]。

◆当事者議員がいることの意義

 そして、健常者議員が代弁するのではなく、重度障害のある二人が議員になることの意義は確かにあると筆者は考える。これまでも障害者団体等は、地方でも国会でも、議員に意見を伝えたり、話し合いの場をもつ等の努力を行ってきた。

 しかしやはり、義務教育の場からの排除、人としての尊厳も自由もない施設での生活、中途障害をもったことによる周囲の態度の変化、コミュニケーションを拒否されること、勝手な思い込みや偏見、使い勝手が悪すぎる制度――といったことを身をもって経験してきた人たちが議員になり、政策決定の場に「いる」ことの価値は、はかりしれないと考える。障害がある身体をもつ人が、という以上に、社会的障壁による不自由や屈辱を体験している人が国会の場にいるということが重要なのだ。当事者議員は、他の障害のある市民の話にも深く耳を傾けられるだろうし、制度の不備を身をもって理解しているだろう。障害のある市民からすれば、そんな議員の存在がどれほど心強いかわからない。

 同僚議員への影響も期待できる。重度障害者と近い場でじっくり話した経験のある議員は少ないだろう。長いスパンにおいて同僚として接することにより、「障害者自身が考え、主体的に行動している」ということを理解できるだろう。障害が重度であれば、それだけで受け身な存在だと思われてしまい、本人の意思や主体性が抑圧されることが本当に多いからだ[7]。

 たとえば文字盤使用の議員の発言をゆっくり「聞く」という体験を通し、本人の意思を直接聞くことの意味を感じ取ることができる。そして、そうした国会の様子がテレビ中継等で映し出されることの教育的意義もある。社会の中でまだまだ隔離されている(つまり出会う機会が圧倒的に少ない)からこそ、国会という場に重度障害者がいることで、「自分の町にも/台風の被災地にも重度障害者がいる」と考えさせる効果をもっている。

 もちろん国会議員の第一の仕事は法制度をつくることだろう。たとえば障害のある人が介助を受けながら働くことができる法制度をつくることが強く期待されている。だが、そうした議員としての活動も、合理的配慮がなければ始まらないのである。

おわりに

 本稿の執筆は、重度障害議員の誕生とその後の動きが話題になる中で、あまりに差別解消法や「合理的配慮」について知られていないまま、無知や偏見に基づくバッシングが起きていることへの危機感に端を発していた。

 障害者差別解消法は「一部の特別な人のため」の法律ではない。自分や、家族や友人を含めて誰でも、「障害や病気をもつことがあったとしてもそれで理不尽な扱いを受けない」「バリアがあったら、それをとりのぞいてほしい(合理的配慮をしてほしい)と堂々と言える」ようにする法律なのだ。「障害があるから生きづらいのではなく、バリア(社会的障壁)があるから生きづらい」という障害者運動からうまれた「社会モデル」のテーゼが今や法律というかたちをとっていることは、希望であると筆者は思う。

 これまでの「健常者中心の社会」が一部の人をしめだし、不平等を強いてきたこと、そこに気づかずにいられたことを思い返してほしい。「迷惑」という言葉がいかに残酷か、上から目線かがわかるはずだ。

[1] 本文では触れられなかったが、仕事中の介護に関する「制度」の障 壁も顕在化
した。Buzzfeed岩永直子氏の記事が最も詳しい。「なぜ仕事中や学校でヘルパーが使えないの?障害者を生きづらくさせている日本の福祉制度」(2019.7.26)
[2] 煩雑になるので省略したが、「不当な差別的取り扱い」は、国・行政、民間事業者のいずれも禁止であるが、合理的配慮については、国・行政と民間事業者では「義務」の度合いが異なっている。(国・行政は義務、事業者は努力義務) 
[3] 2016年5月11日(毎日新聞)「障害者支援法  審議にALS患者の出席拒否 与党が反対」。同年5月10日の衆議院厚生労働委員会で、障害者総合支援法の審議にあたり、参考人として質疑の場に立つはずだった日本ALS協会副会長の岡部宏生氏が「答弁に時間がかかる」ことを理由に出席を拒否された。ALS協会を含む障害者団体が厳重に抗議を行い、後日、岡部氏を招いた質疑の場が国会内に設けられた。
[4] 「障害の社会モデル」は、障害者が経験する生きづらさや不利益は、心身の欠陥のため(障害の医学モデル)ではなく、(1節で述べたような)社会的障壁が原因である、という考え方。
[5] 2019年7月30日 東京新聞「特報 『いいね』5万件の闇」
[6] たとえば車いすユーザーが路線バスに乗ろうとしたとき、乗務員がスロープを出す少しの時間、他の乗客が「待つ」ことがあるが、この時に冷たい目を向けられる、舌打ちされる、暴言を吐かれるといった体験を何度も聞いたことがある。同じようにバスに乗っているだけなのだと考えて、待つことが当たり前になってほしい。
[7] 障害の重い人は健常者に「代弁」してもらえばいいという風に考えるのは、誤ったパターナリズム(父権的温情主義)である。

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