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地獄の沙汰も“推し”への愛次第!? ~鬼オタおばあさんに学ぶハッピーに生きる法

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ペンライトを持って鬼を“推し”てるおばあさん

 WEZZYで 百女百様を連載中のテキストレーター・はらだ有彩さん。今年8月にはらださんが上梓した『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房) は、日本の神話や昔話に登場する女性たちの生き方を独自の解釈で捉えなおし、まるで友達のような存在に感じさせてくれる本です。彼女たちの姿は、現代の私たちにとっても強く軽やかに生き抜くためのヒントになります。

 今回は特別に、同書に収録されている一篇をご紹介します。昔話「鬼を拝んだおばあさん」に登場するおばあさんは、生前鬼を愛しすぎたあまり、理不尽にも地獄に落とされてしまうのですが――?

オタクとヤバい女の子――鬼を拝んだおばあさん

 私が心から愛してやまないものは、世間の人にとって褒められたものではないらしい。いつも眉をひそめられてしまう。そんなときはちょっと悲しい顔をしてみるんだけど、「好きすぎてヤバい」問題の方が深刻だったりする。

                *

 昔々、今でいう富山県のあたりに、おばあさんが暮らしていた。おばあさんは変わり者で、「鬼」を熱心に信仰していた。普通の人が「仏様……仏様……」と唱える場面で、一人だけ「鬼様……鬼様……」と祈るのである。周囲の人々は「鬼はまずいって、やめなよ」と止めるが、聞く耳を持たない。結局、おばあさんは天寿をまっとうするまで、生涯鬼を拝み続けた。

 さて、亡くなったおばあさんは三途の川を越え、閻魔大王のデスクの前に立たされていた。閻魔帳に目を通しながら、大王は正直ちょっと引いていた。何これ。資料に「生前、一度も仏を拝んだことがない」「鬼を拝みまくっていた」とか書いてあるんだけど。いったい何を経験したらこういう思想になるんだ? 変な人間だな。とにかく一度も仏様を拝んだことがないのはダメだろ。――というわけで、おばあさんは地獄へ落とされる運びとなった。

 しかし、恐ろしいはずの地獄へ一歩足を踏み入れた瞬間、おばあさんのテンションはぶち上がった。何しろ、これまでずっと崇拝してきた鬼がその辺をうろうろしているのだ。これは夢だろうか? 長年追いかけてきたバンドの打ち上げに参加できてしまったバンギャのような心持ちで震えながら周囲を見渡す。

 一方、鬼の方でもちょっと照れていた。普段、なかなかスポットライトの当たらない職種である。自分たちをいつも拝んでくれた人間と対面するのはうれしくて気恥ずかしい。おばあさんには釜茹での刑が言い渡されたが、鬼たちはこっそり特別な釜を用意してくれた。小ぶりの釜に四十二度くらいのいい感じの湯が沸いていて、おばあさんはホカホカになった。リラックス&デトックスするばかりでまったく意味がないので、針山を登る刑にプランが変更された。鬼たちはおばあさんの通り道だけ針を抜いてくれた。おばあさんが無傷で針山の頂上へ到着すると、絶景が待っていた。あちらこちらで鬼が働いているのが見える。遠くの方には極楽がぴかぴかと光っている。こんな素晴らしい眺めはない。よし、ここに住もう。

 勝手に永住計画を進めるおばあさんに閻魔大王はすっかり閉口してしまった。罰が罰にならないのでは本末転倒。成果の出ないことにリソースを割いても仕方がない。結局、この案件は極楽へ回されることになった。おばあさんはいい夢見させてもらったな〜と思いながら、さびしそうに見送ってくれる鬼たちに手を振り返し、極楽への階段を登るのだった。

 この物語を初めて知った時、私はあまりのアホらしさに興奮した。何かこの人、見たことある。この……誰に何を言われようと、逆境に立たされようと、一人で楽しそうなこの感じ……。

――オタクだ。

 鬼推しのオタクだ。ではこれは、オタクすぎて地獄行きになった人の話ってこと? そんなアホな。しかしひとしきり笑ったあとで、突然楽しい気持ちがストップし、正体不明の気味悪さに襲われた。ん? この人って本当に、なんで地獄に来ることになったの?

 釜で茹でられたり、針山を歩かされたりすることは、笑いごとでない苦痛を伴う。結果的には面白おかしいオチになっているが、本来なら愉快な要素は何ひとつない。そしてその責め苦を受けるおばあさんはいたって普通の人だ。地獄の釜や針山というベタな地獄絵図からは衆合地獄や叫喚地獄、無間地獄などが思い起こされるが、それに相当する殺人や窃盗や詐欺といった罪をおばあさんが生前に犯した描写は特にない。鬼とのコミュニケーションを見ていると、「普通」どころか、どちらかというと気のいい部類の人物っぽい。そもそも前科があれば、いくら堪えていないからといっても極楽へのルート変更は難しそうだ。それでも彼女には熱湯に放り込まれる刑や、串刺しになる刑がもっともらしく準備されていた。鬼を拝んだ行為のみによって、「ほんとうは別に罪ってほどじゃないんだけど、なんとなく異端っぽいから」というふわっとした理由のみによって、彼女の運命は決められていたのだ。閻魔さま、一介の人間が差し出がましいようですが、何してくれてんの?

 「拝む」というのは、何かを心の拠りどころにする行為である。これは私の想像だが、多分、おばあさんは最初からずっとこんな風にコミカルなキャラクターだったわけではない。少女時代から青春を経て大人になり、さまざまなライフステージでいろいろな経験をしたはずだ。一人の人間が老人と呼ばれるまでの数十年間という時間の中には、わーっと泣きながら走り出すほど悲しいことや、ただ立っている以外に何もできないほど苦しいことがあっただろう。その折々で鬼は彼女を支えてくれた。もちろん実際に目の前に現れて何かしてくれたわけではなく、ただ概念として存在していただけだ。しかし鬼という概念があるだけで彼女の心は明るくなり、信じるものに傾倒する充足感は日々を少なからず豊かにした。そうやって自分を奮い立たせてくれた「日常に立ち向かって良く生きようとしたときに救ってくれたもの」「人生を幸福のうちに終えさせてくれたもの」が否定され、救われていた自分自身までもが悪いものだったとジャッジされる。信仰に限らず、この通告は私たちの生活に日常的に降り注ぐ。そんなの未だにやってんの、あんただけだよ。もっと有意義なことした方がいいよ。プロになるわけでもないのに、無駄じゃない? めっちゃお金落としてるの、引くわ。子供の遊ぶやつじゃん。気休めじゃん。

「あなたが好きなものは、普通は人生を豊かにするようなものじゃないから」「一般的にはこういうものを拠りどころにするべきだから」という理由で縋っているものを否定される。それはある意味では地獄よりも恐ろしい。……と、第三者である私は勝手に憤慨しているのだが、当の本人、おばあさん自身は何だかまったく気にしていない。

 そもそも、最初から地獄に落とされるとわかっていたらおばあさんは鬼を拝むことをやめたのだろうか。周囲の人は「死んだあと恐ろしい目に遭うよ」と警告したかもしれない。だけど彼女は信仰し続けた。たとえ本当に煮えたぎる湯の中に落とされても一ミリも後悔しなかっただろう。おそらくおばあさんは、おばあさんになるまでの人生の中で「お前は間違っている」と何百回、何千回も言われてきた。だから、今さらそれが一回分増えたところで(あー、またか、まあいいや別に)としか思わなかった。だって、鬼だけが彼女を救ってくれたのだ。他の何も彼女を救えなかった。あなたは「良い」の定義から外れているから「悪い」ものに分類しますよ、と言われても、その「悪い」がまるきり自分の「良い」だった場合、心の痛めようがない。

 それにしても鬼への信仰を否定されたとき、おばあさんは不愉快に思わなかったのだろうか。抗議したくはならなかったのだろうか。閻魔大王の権力に屈して、あるいは閻魔大王が鬼の上司に当たるので忖度して、黙っていたのか? しかし「お前は間違っている」と言われ、好きなものを否定されたとき、「いや、お前こそが間違っている!」と声高に反駁しないからといって、不当な扱いを受け入れているとは限らない。だって閻魔大王は面と向かって反論されるよりも、大声で泣かれるよりも、おばあさんが一切気にせず楽しくハッスルしている状態が一番困るだろう。この物語の中では、ただただ、おばあさんがおばあさんとして存在していることが、第三者のジャッジメントを無効化している。彼女は鬼に救われると自分で決め、そして事実、軽快な心持ちで人生を生ききった。生ききった時点で彼女の一人勝ちなのだ。

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 クライマックスでおばあさんは極楽へ行ったが、彼女にとって極楽が良いところなのかどうかはわからない。極楽に鬼はいない。きっともう二度と会えないだろう。しかし、そんなことは瑣末な問題かもしれない。鬼と初めて対面したとき、窮地を救われたとき、今まで想像のみで賄っていた「生きるよすが」に色がつき、動きが生まれ、体重や息遣いまで感じることができた。鬼たちはおばあさんの思想と行動にレスポンスまでくれた。本当に鬼が存在しているか不確かだった生前でさえ強い熱量で乗り切ったのだから、目の前でその対象が動いて自分に働きかけてくれた今、おばあさんは無敵である。四六時中生活をともにしていなくても彼女の魂は守られている。離れ離れになっても、目を閉じて呼べば浮かんでくる。

 ありがとう、私の神様。私のヒーロー。私の源泉。極楽でも超ハッピーに暮らしてみせる。だからこれからも心の中に、永遠に住み続けていてね。誰に何と言われようと、来世でも推します。
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★このお話は、『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房)からの転載です

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