ネットメディアでは、「外国では○×だが、日本では△×だ」「日本の常識は外国の非常識」といったタイトルの記事をよく見かける。「外国では云々」という記事を掲載すると、そのテーマを読みたい読者だけでなく、「日本と外国を比較すべきではない」という、いわゆる「保守的な」人たちが大挙して押し寄せ、記事を猛烈な勢いで閲覧してくれるのでPV(ページビュー)を稼ぎやすい。媒体側もビジネスなので、どうしてもこの手の記事が多くなってしまうのだ。
だが近年、「日本と外国は違う」という話は徐々に成立しなくなっている。確かに昭和の時代までは、日本と先進諸外国には大きな文化的断絶があったが、近年はグローバル化の進展でこうした差異はかなり縮小している。「外国では云々」という記事を冷静に読んでみると、話題の大半はもはや日本人にとっても常識ということが多いのだ。
外国人にとって失礼なことは日本人にとっても失礼
先日、ある媒体に「外国人が不快に感じる日本人の言動」というテーマの記事が掲載されており、そこでは、「相手の目を見てしゃべらない」「照れ笑いをする」「身体的特徴について会話する」といった具体例が示されていた。
一般論として、上記3つのいずれかに該当する日本人は多く、外国人が不快に感じるのでやめるべきだという話は、それなりに成立するかもしれない。だが、今の日本において、常識的なビジネスを行っている人たちの間では、(日本人相手であっても)相手の目を見てしゃべらないというのは非礼なことだし、照れ笑いも、笑い方次第では、相手にかなり不快な思いをさせるはずだ。
身体的特徴についても同様である。このご時世に、女子テニスの大坂なおみ選手に対して、人種差別的なネタを披露するお笑い芸人がいるというのが日本の現実ではあるが、相応の社会階層に属する人であれば、相手との会話で不用意に身体的特徴を持ち出さないというのは常識中の常識だろう。
つまり、この記事で指摘されている「外国人が不快に感じる言動」というのは、日本人にとっても同じことであり、外国人が不快に感じることであれば、たいていのことは日本人でも不快なはずである。
改善すべき点を指摘することが日本文化への侮辱になるという奇妙な思考回路
別の記事では、日本の住宅の断熱性能があまりにも低く、欧米各国と比較すると、エネルギーをムダに捨てているとの指摘があった。特に欧州の人が日本にやってくると、家があまりにも寒いのでビックリするそうである。
日本は、もっとも断熱性が低い素材のひとつであるアルミニウムを、コストが安いというだけの理由でサッシとして使い続けている奇異な国であり、コスト最優先で、住宅の内壁にも十分な量の断熱材が充填されていない。窓の断熱性能が極めて低く、暖房してもその熱の大半が外に捨てられている。このため、エネルギー効率が悪く、しかも住宅の内部には大きな温度差があるため、住人の健康や快適さに悪影響を与えている。
こうした住宅の違いについても、文化の違いとして理解されることが多いのだが、日本の家の断熱性が低く、住宅としてのクオリティが保たれていないというのは、30年以上も前からずっと指摘され続けてきた事実である。これは文化の違いではなく、改善しなければならない社会的課題といってよい。
エネルギーがムダに捨てられ、冬には足が冷え切ってしまう家よりも、エネルギー効率が高く、暖かくて快適な家が望ましいのは、日本人にとっても同じことである。
ところがこうした記事には、たいていの場合、「日本と外国は違う」「西洋に媚びる必要はない」「何でも欧米では、と言うべきではない」「日本文化をもっと大事にすべきだ」など、おびただしい数の批判コメントが寄せられる。
相手の目をしっかり見ないことが、なぜ日本が誇るべき文化になるのか、不快な家を減らそうという話がなぜ欧米に媚びることになるのか筆者にはまったく理解できないが、こうした人たちにとっては、ごく普通に日本人として不快に思えることに関しても、文化の違いなのだから、日本では当然のことであると認識するらしいのだ。
もちろん、こうした意見の多くは批判のための批判なのだろうし、媒体がPVを稼ぐ目的から、記事に挑発的なタイトルを付けていることも少なからず影響しているだろう。だが、改善すべき点を指摘することについて、「日本文化を貶めている」と認識する人はかなりの数にのぼるのが現実である。
ある層の日本人にとってはごく当たり前のことであり、外国と日本の違いには思えない話でも、別の日本人には、日本に対する批判や侮辱と捉えてしまう。これはもはや日本と外国における文化の差異ではなく、日本国内における深刻な断絶と捉えるべきだろう。
かつては先進国との比較を素直に受け入れられた
日本経済は戦後、焼け野原からスタートした。昭和の時代までは、高度成長によって年々豊かになるという状況であり、多くの問題があまり時間をおかずに解消されてきた。
努力と工夫を重ねれば、大抵の問題は解決できるといった前向きなマインドを持つ人が多かったことから、「欧米では○×だ」という話題を材料に日本社会の問題点を指摘しても、そのこと自体が反発の対象になるケースは少なかったのである。
ところが平成から令和になり、日本経済の貧困化が進んだ今、社会問題が解消されるどころか、年々、状況がひどくなっている。
外国との比較記事を批判している人たちが、どれほど明示的に自覚しているのかは不明だが、「外国と比較されたところで、自分の生活が良くなるわけではない」と漠然と認識しており、それが強い反発につながっている可能性は否定できない。
もしそうなのだとすると、これからの日本においては、諸外国の比較で改善を促すという問いかけはますます難しくなり、問題解決への道はさらに遠のくことになるだろう。
この話は要するに、「ダメなところをストレートに指摘されたほうがやる気が出る」のか、「ダメであっても優しく褒めたほうがやる気が出るのか」の違いと考えてもよいだろう。昭和の時代までは前者で、令和の時代は後者ということになるが、残念なことに、前者のほうが圧倒的に効率がよく、短時間で成果を得ることができる。
これまで「外国では云々」という記事には、人目を引くことによって、日本社会の問題点を提起するという役割があったが、これからはそれも難しくなるだろう。国内に一旦生じた大きな断絶を解消するのはそう簡単なことではない。