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使い捨てストローを金属製に変えた話

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トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた

 今年の誕生日にストローをもらった。液体を吸うための、中が空洞になっているアレだ。ストローなんて、100円ショップにいけば200本入りで売っているが、もらったのは金属製の再利用できるもので、試験管洗いのようなブラシも付属している。理系出身者としては、冬の寒い日にひたすら試験管を洗いまくった日々を思い出してノスタルジーにひたれる、というおまけつきである。

 近年、プラスチック製ストローは環境破壊の原因になっているとして、代替となる金属製のストローや紙ストローの存在が注目されている。ドリンクにパスタ(中が空洞)をさして提供するカフェもあるらしい。環境問題にそんなに詳しいわけではない自分も、ウミガメの鼻にプラスチックなどが詰まっている動画を見て、ちょっと思うことがあり、最近ではレジ袋やストローをなるべくもらわないよう頑張っている。が、数年前までは、なんの考えもなしにレジ袋やプラスチックのストローをもらいまくっていた。このトピックについて、自分がまったく無知だったからだ。

 ものを知らない、ということは、ときどき自分や他人に計り知れないダメージをもたらしてしまう。私はLGBTなどの多様な性について学校などで教えることが多いが、子どもたちの中には素直に「これまでホモだといって友達をからかっていたのは、場合によってはその人が立ち直れないぐらいのショックをうけることだと思ったから、これからはやめます」と書いてくれる人もいる。自分のまわりにいるかも、とか、もし自分が同性愛者だったら不快だろうな、とかを考えることができるようになったのは学習した結果だ。でも、みんながこのように素直なリアクションを示すかといえば、そうではなく「自分は悪くないもん」と中には防衛的になる人もいる。腑に落ちるための情報がまだ足りないとか、だったらこれまで自分が信じ込まされてきたカルチャーはなんだったろうという怒りとか、いろいろな背景があるが、しばしば学習のネックになるのは「罪悪感」だと思う。

 差別を「個人の心のあり方」の問題とだけ捉えると、このトピックについていけないのは自分が悪い存在だからだと感じさせてしまうことがある。たとえば同性愛を「普通でない」と感じるのは、そのような社会の中で私たちが育ってきているからなのだが、そういうメタな視点がないと「自分の感じ方の偏狭さが原因なのではないか」と心配になる。これまで教科書には「思春期になると人は異性を好きになるものだ」と書かれてきた。でも、もし別のコンテンツで学習していたなら、世間の常識はまた違ったものになっていただろう。差別問題は自分ごととして捉えることが大事、とかよく言われるけれど、愚かかもしれない自分の実存を深掘りするより、学べなかったシステムを変えようとしたほうが話の早いこともある。

 冒頭のストローもどこか似ていて、ウミガメの鼻にストローが刺さっている動画をみたときは「人間はなんて愚かなのだろう」とシリアスな気分になったものだが、たとえ人間が愚かだったとしてもストローの素材は代替可能なのだ。できれば金属ストローを「意識高く」持ち歩かなくても、紙や小麦粉のストローがドリンクに投げ込まれる社会になったらいいのに思っている。過剰な罪悪感はむしろ「自分は悪くないもん」「変わる必要はないもん」という防衛的な姿勢を強化するのかもしれない。

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