あいトリと地続きに日本映画は死んでいく――映画業界はなぜ立ち上がらないのか

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井上淳一氏(撮影:編集部)

 10月27日から11月4日にかけて行われた「第25回KAWASAKIしんゆり国際映画祭2019」が、波紋を広げている。

 この映画祭では従軍慰安婦を描いたドキュメンタリー映画『主戦場』が上映される予定だった。しかし、共催の川崎市は、出演者が監督と配給会社を相手に裁判を起こしていることから「裁判になっているようなものを上映するのはどうか」との”懸念”を映画祭側に伝える。それを受けて主催者は観客の安全面を理由にして上映中止を決めた。

 これに対してしんゆり国際映画祭に出品している他の映画の関係者から、抗議の動きが起こる。

 若松プロダクションもそのひとつ。若松プロは製作配給した『止められるか、俺たちを』と『11.25自決の日〜三島由紀夫と若者たち』をしんゆり国際映画祭に出品していたが、『主戦場』上映中止への抗議として2作品の出品を取り消した。

 「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」の中止および助成金不公布、映画『宮本から君へ』の助成金内定取り消し問題に続いて起こった「表現の自由」を脅かすこの事件。『止められるか、俺たちを』で脚本を担当した井上淳一氏に話を聞いた。
(このインタビューは10月31日、若松プロダクションにて収録した)

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【井上淳一】
1965年、愛知県生まれ。大学在学中より若松孝二監督に師事し、若松プロダクションにて助監督を務める。その後、荒井晴彦氏に師事し脚本家に。『戦争と一人の女』『大地を受け継ぐ』『誰がために憲法はある』といった作品では監督を務めている。主な脚本作品には『男たちの大和』『アジアの純真』『あいときぼうのまち』『止められるか、俺たちを』などがある。

──まず始めに、今回の決定を受けてどのように感じられましたか?

井上淳一(以下、井上) 「あいちトリエンナーレ」や、『宮本から君へ』などの問題の延長線上に起きたことは間違いありませんが、関東のローカルな映画祭ですらこういうことが起こってしまうのかと。深刻な問題だなと感じましたね。

──この事件の一番の問題点はどんなところだと思われますか?

井上 今後、他の映画祭で『主戦場』を上映したいと思っても、もっと言えば歴史認識の問題以外でも、沖縄や原発といったテーマで安倍政権の意向と対立する主張を展開する映画をかけたいと思ったら、主催者の頭に「問題が起きるのではないか? 助成金がおりなくなるのではないか?」という考えがよぎり、社会問題を描いた映画がそもそもラインナップされなくなってしまうかもしれないということですね。
 最も死活問題だなと思うのが公民館など公共の施設。僕の映画(『誰がために憲法はある』)はいま日本全国で観てもらっていますが、そういった映画の上映会をやるのは地方では公民館の場合が多い。でも、「政治的に偏った映画はちょっと……」と貸してもらえなくなる可能性も出てくるかもしれない。そうなったら、もう誰も社会的なドキュメンタリー映画なんてつくることができなくなってしまいます。

──ドキュメンタリーに限らず、劇映画でも同じことが起こるような気がします。

井上 企画段階ではねられるものも出てくるだろうなとは当然思います。
 たとえば、関東大震災の朝鮮人虐殺をテーマにした映画をつくるとします。小池百合子東京都知事が朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典への追悼文送付を取りやめて問題になっていますよね。小池都知事がやっていることは、これまで受け継がれてきた、反省すべき日本の負の歴史をなかったことにし、そこに分断線を引くというとんでもないことなわけですよ。
 若松さん(※故・若松孝二監督)だったらこの報道に怒って「朝鮮人虐殺の映画をやってみようか」となったかもしれない。でも、そういった時代の映画をつくるのにはお金がかかる。そのテーマじゃ助成金は受けられない、完成しても上映場所が限られるとなったら、せっかく浮かんだアイデアも動き出す前につぶれてしまうでしょう。
 そうやって日の目を見ずに、水子となって消えていく企画を考えると、これはとんでもないことですよ。

──「忖度」がますます強まるきっかけをつくってしまったわけですね。

井上 川崎市にも映画祭にも当事者意識はないのかもしれない。ただその代わり、強い自己保身だけはある。そのことに怖さを感じますね。
 彼らは『主戦場』の上映中止が「文化を殺す」ことにつながるとはまったく思っていないのでしょうが、今回やったことは「映画を殺す」「映画祭を殺す」ということですよ。
 なぜ、これが色んなことに敷衍していくことだと気づかないのか。

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『止められるか、俺たちを』©若松プロダクション

最近の日本映画界には社会問題を描いたエンタメ作品が少ない

──そもそも、「映画」と「権力」の関係はどうあるべきなのでしょうか?

井上 「国に異を唱えるような映画をつくるなら自分の金でやれ」という意見はすごくあると思うんです。
 実際、若松さんなんかは自分の映画が助成金を受けられるとは端から思ってなかっただろうし、僕も低予算でやれているというのもあって、個人的にはその信条もなくはないですよ。だって、権力を相手に戦うんだから。
 でも、大原則として、国が芸術に助成金を出すのは、表現の多様性が失われて国策に取り込まれ、戦争を後押ししてしまった戦前のドイツや日本の反省を踏まえてのことであるわけです。
 もっと言えば、権力者を批判したり、その国の負の歴史を振り返るような表現が生まれることは、結果的には国のためになるという理解があった。

──いまの日本ではその発想がどんどん失われているように感じます。

井上 国たるもの、そこらへんはわきまえなければいけない。わきまえる側は僕たちじゃない、国の方なんです。
 だから、ここで原則に立ち返らなければいけない。第二次安倍政権発足以降、74年かけて積み上げてきた民主主義が崩れてしまっていますが、それがついに文化・芸術のところまで来たのかという気が僕はしています。

──出品取り消しの声明文でも触れられていましたが、この騒動で思い浮かべたのは釜山国際映画祭のことです。釜山国際映画祭は2014年に出品されたセウォル号沈没事故を描いたドキュメンタリー映画『ダイビング・ベル セウォル号』の上映をめぐって助成金カットなどの圧力を受けました。しかし、韓国映画業界がサポートし、映画祭も脅しに負けず上映に踏み切りました。釜山と川崎では180度逆のことが起こっています。

井上 それは韓国映画と日本映画の質を比べたら明らかなわけですよ。周回遅れの1位という言葉がありますが、いま、日本映画は世界と比べて10周遅れのどべですから。それはそうですよ。社会と向き合わず、歴史とも向き合わないのだから。
 ここ最近で『万引き家族』と『新聞記者』以外にシネコンでかかった社会を描いた映画ってあるんですか?
 我々のようにポレポレ東中野でやるようなドキュメンタリー映画と、爪の先ほどの劇映画しかないじゃないっていう。本当に由々しき事態だと思いますよ。

──一方、韓国では1980年に起きた軍事独裁政権に対する民主化運動「光州事件」を描いた映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年公開、日本公開は2018年)がその年の観客動員数1位になっています。

井上 ああいった題材を描きながらも、きちっとエンターテインメントに仕上げて観客を楽しませる技術はすごい。しかも、ソン・ガンホやハ・ジョンウという大スターを起用して、大ヒットさせるという。
 それは、権力と対峙する映画を支持する度量を社会が見せることで、製作者の表現に関する発想も豊かになっているということだと思うんですよ。

──なるほど。

井上 どこかでリミットがかかっていると、表現の発想ってしぼむものなんです。
 たとえば、僕の『誰がために憲法はある』という映画は広島と長崎の原爆に関する朗読劇をやっている女優さんを描いた映画なんですけど、よく言われる「日本の戦争に関する映画は“被害”だけやって“加害”はやらない」という批判がそのまま自分に返ってくる映画になってしまった。
 あとから考えたら単純なことだったんですよ。インタビューをしているとき女優さんに「日本の戦争加害についてどう思っていますか」と聞けばよかった。
 ただ、撮影している間にその質問がまったく思い浮かばなかったんです。自分で規制していたわけではないですが、女優さんとの信頼関係をちゃんと築く前に撮影に入ってしまった。そのことが無意識に発想にリミッターをかけていたと思うんです。編集しているときにそのことに気づいて愕然としました。表現にはそういうことがあるんです。

──アメリカでもエンターテインメント作品に社会的なメッセージが入っていることが多い印象です。

井上 マーベルは映画を通じて「9.11以降の正義とはなにか?」みたいなことを観客に問うているわけですよね。いまやっているDCの『ジョーカー』だってそうです。格差や緊縮財政の問題を描いている。
 僕たちの作る規模の映画はそういう問題に関心のあるしか観に来ません。届く人にしか届かないんです。トランプ大統領の支持者が『ジョーカー』を観に来てそのメッセージを読み取れるかは分かりませんが、それでも「届かない人」にまで届けようという意志は明解です。

──エンターテインメントには政治や社会問題に関心のない人にもメッセージを届かせる力があると思います。

井上 我々は映画をつくっている側の人間だから、映画の力を過大評価しているのかもしれないですけど、やっぱり映画には本や演劇にはない力があるはずなんです。
 1本映画をつくると、観にくるお客さんもそうだけど、それ以外の人にも届かせることができます。たとえば、新聞、テレビ、ラジオ、ネット記事などで映画が紹介されれば、映画を観ない人にも映画の描くテーマは伝わるし、映画から波及するかたちでブックフェアが行われたりイベントが企画されたりもしますよね。

日本映画界全体が立ち上がるべき

──これから日本の映画界はどうしていくべきなのでしょうか?

井上 日本アカデミー賞などで誰かがこの映画祭で起きたことに抗議するため立ち上がるかどうかですね。
 アメリカだったらおそらく、そうなってます。アカデミー賞の受賞スピーチでどれだけの政治的発言を見てきたことか。韓国では釜山国際映画祭のときに立ち上がった。
 でも、いまの日本ではそうなっていない。なんでしんゆり映画祭と同じ時期に開催されている東京国際映画祭の事務局はこの件について声をあげないんだろうって思いますよ。いや、東京国際だけじゃない。他に数多ある映画祭のどこも声を上げない。映画人だって何人声を上げました? 日本映画監督協会だって日本シナリオ作家協会だって、未だに声明ひとつ出していない。
 こういう言い方は傲慢に聞こえるかもしれないけれど、もし若松プロの映画が出品されていない映画祭でこういうことが起こったら、上映ボイコットする映画が出てきたかどうか。ここまで問題が大きく報道されたかどうか。

──なぜ日本の映画界には危機感がないのでしょうか?

井上 映画は想像の産物であるはず。ならば、ちょっとだけ想像力を働かせて、これから起こることを想像して欲しい。いや、想像しなくても歴史を振り返れば、これから起こることは推測がつくはずなんです。「モボ・モガ」なんて言葉が生まれて大衆芸術が花開いた大正デモクラシーの時代から治安維持法成立までは何年も離れていません。
 これまで僕は、「このままでは表現の自由が奪われる」とか「共謀罪は現代の治安維持法だ」とか言ってきた。ただ、その一方でどこかいまの社会ではそんなことは起こらないと、正直、高もくくっていた。
 でも、いまの時代、これまで謳歌してきた自由がいよいよどうなるかわからなくなっている。
 すでに、権力が国民の意見を峻別し、差別と検閲をし始めているわけです。今回、川崎市がやったことはそういうことですよ。
 だから、ここで立ち上がらない映画関係者には「お前ら、ものをつくる資格ないよ」って言いたいぐらいですよ。

(取材、構成:編集部)

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このインタビューの翌々日(11月2日)に、しんゆり映画祭事務局は『主戦場』の再上映を決定、11月4日に上映され、若松プロも同日上映予定だった『止められるか、俺たちを』を復活上映した。このことについて井上氏に追加で話を聞いた。

井上 『主戦場』が上映されたことは素直に良かったと思いますし、映画祭事務局もよく決断したと思います。
 しかし、これをハッピーエンドにしてはいけない。今回は『主戦場』が上映決定していて中止になったから、問題になった。でも、これからはプログラムを決める会議の段階でこういう映画を上映したら、ああいう問題が起きるかもとその段階で切られるようになる可能性が大きい。表面に出ることなく、深く静かに潜航して、第二第三のしんゆり映画祭問題が起こっていく。こうなったら、どうしようもありません。だからこそ、映画に関わる人間も映画祭に関わる人間も、今回の問題を自分の問題と捉えて、ちゃんと見つめ直して欲しい。そういう考えを表現出来なくなってからでは遅いのです。
 まずは、第三者委員会じゃないけれど、今回どういうことが起こり、どういう判断がなされたかを目に見える形で公にしなくてはならない。まずはそこからです。

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