令和に振り返る、大正天皇嘉仁はどんな人物だったのか

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 そうした嘉仁の性格は、明治帝の目からは帝には不向きであり、彼にとって息子は「愚物」。イギリス留学経験のある威仁は、嘉仁は西洋流の王室の在り方に向いており、天皇の威光を畏れ伏して仰ぎ見る時代から、嘉仁の代では国民から親しみの視線を向けられる時代になってもいいのではと説きます。

 日本の行く末と切っても切り離せない皇室の未来を案じながら、明治帝が崩御。富国強兵に追い立てられた明治のあとに訪れた大正は、つかの間の平和の時代でした。嘉仁はテニスや乗馬にいそしみ、上野の表慶館や東京駅の駅舎などの西洋建築が立つ、新しい時代の象徴。また、4人の男児に恵まれるも、子供たちを自分たち夫婦の手で育てられないことに悲しむ嘉仁は、初めて一夫一妻制度をとった天皇であり、節子にとってその幸せは宝物でした。

「天皇とは何か」

 常に「天皇とは何か」を考え続けている嘉仁は、時の首相・大隈重信に問いかけます。大隈の返答は「自分たちで作った神棚」。明治維新による将軍や大名に代わって大衆が拝むものであり、為政者が拝んで目的と手段が入れ替わってしまうもの--乱暴な言い草ですが、嘉仁はそれを受け入れます。

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令和に振り返る、大正天皇嘉仁はどんな人物だったのかの画像2 ウェジー 2019.10.21

 しかし天皇の激務は元来病弱であった彼の体をむしばみ、髄膜炎に侵され、記憶や言語の乱れがあらわれ、歩行など日常動作が不自由に。病に倒れるのは人間であり、天皇は現人神ではないと民衆に思われないため、宮内大臣の牧野伸顕(吉田テツタ)は、聡明に育った嘉仁の長男、裕仁を摂政に立てることを計画します。

 節子に支えられながら玉座へと歩む嘉仁役の西野の、不自由な肢体の演技はとても生々しいものでした。意識が混濁し目の焦点も合わないことも多々なのに、摂政を認めるよう迫られると急に意識が明瞭になり「責務から逃れることはしない!」と叫ぶ痛々しさ。また、節子を演じる松本は、天皇の名誉と国を守るための毅然とした強さが秀逸。一方で、夫が病を得ても変わらないまなざしの優しさが印象的で、肉親の愛が希薄だった悲劇の帝王が、確かな愛情を得られていたことが救いになっていように感じました。

 摂政就任を進めるために牧野がとった手段は、情報操作。宮内庁の正式発表として新聞に赤裸々な病状を公表し、幼少期から脳に異常があったと世論を誘導します。しかし、すべては皇室の尊厳を守るため。自分がすべての泥をかぶることを覚悟したうえでの行為で、強引な摂政就任は裕仁も承知していました。

 嘉仁の没後、世界的に戦争へと向かう時流のなかで、裕仁は強い大日本帝国の確立のため、強い天皇像=明治帝への回帰を示し、父の存在をなかったかのようにふるまいます。でも、天皇の存在や在り方について自問を続けていたのは、父と同じ。裕仁の「父上を裏切りました。時にはすべてを投げ出したくなります」という吐露に対し、節子が返した言葉は「先帝陛下は、天皇である定めから逃げ出しませんでした」。涙も苦悩も飲み込んだ裕仁へ、軍楽隊が「君が代」を奏でるなか「天皇陛下万歳」の歓声が浴びせられます。

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令和に振り返る、大正天皇嘉仁はどんな人物だったのかの画像2 ウェジー 2019.01.11

 「治天の君」は、登場人物はすべて実在の人物ですが、当然ながら創作物であり、事実ではありません。しかし、天皇という存在が人生のすべてを日本という国に捧げていることは、疑いようのない真実だと思います。今上天皇の即位の際、首相による「天皇陛下万歳」に否定の意見も数多くありましたが、個人的には、このラストシーンの「万歳」は、ただ純粋に、胸を打たれました。感じ方や受け止め方はひとそれぞれ、そのことが保証されていることこそが、令和の時代のすばらしさのひとつであると感じます。

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