障害者が生きることに説得力なんていらない

文=山本ぽてと
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障害者運動とストーリーテラー

――横田弘さんや「青い芝の会」の思想はすごくラディカルで、今の時代を生きる私たちが学べることはたくさんありますね。

荒井 でも、同時にぼくたちは「前進」しているのか考えないといけません。ジェンダーについての本を読むと、10年前、20年前の文章では「以前はこんな感じだったな」と感じるものがあります。でも「青い芝の会」の本は、いま読んでも、いまだに「ラディカル」です。

 72年の映画『さようならCP』には横田さんが、詩を読むパフォーマンスを街頭で行い、警察に止められるシーンがあるのですが、そこで警察は「責任者は誰?」と何度も映画の撮影隊に聞きます。パフォーマンスをした横田さん本人を責任者だと認めない。障害者には主体がないと思われていたからです。

 国会議員になった重度障害者のふたりに対して、「障害者には何もできない」「政治利用だ」という声が挙がりました。いまだに「何もできない」という認識なのか。おふたりとも、医療制度や福祉制度の「使い勝手の悪さ」に関しては厚生労働省の官僚よりも詳しいでしょうし、地方自治体での交渉から国会でのロビー活動などを粘り強く行ってきた実績があります。

――百戦錬磨なんですね。

荒井 それなのに、いまだに障害者には主体がないと思われています。横田さんが路上パフォーマンスした時から、どれだけ前進しているのか。

――確かに、フェミニズムの領域には、「セクシュアルハラスメント」をはじめとして、様々な言葉が蓄積されています。

荒井 そう考えると、障害者差別があったときにみんなどんな言葉で闘うんでしょうか。相模原事件のあと、「同じ人間なのに」という言葉が出てきました。確かにそうなのですが、「青い芝の会」の結成メンバーである高山久子さんが、1956年に「小児麻痺患者も人間です」と書いた時と変わっていません。「優生思想」という言葉を障害者差別批判の文脈で使ったのも、横田さん達です。それから約半世紀、私たちはまだ同じ言葉を使っています。

 でも勘違いしてほしくないのは、そうした言葉を考える責任は、障害者の側ではなく、社会の側にあることです。

――社会の側ですか。

荒井 はい。日本の障害者運動の大きな問題は、運動の理念や哲学を語り広める「ストーリーテラー」がいなかったことです。例えば、本屋に行って伝記のコーナーを見ても、戦国武将や政治家、文化人、実業家はいるけれど、草の根の社会運動家がほとんどいません。草の根の社会運動に尽力した人たちは、「偉人」ではなく「奇人」として扱われて、運動も「社会全体」の問題ではなく「一部の人」の問題として受け止められてしまう。

 でも被爆者の運動や水俣病の患者運動、反基地運動、女性運動など、草の根の運動は続いてきて、社会を変えてきました。そして、障害者運動は、哲学的にも思想的にも面白い言葉を生み出してきました。「生きていることが労働だ」とか「迷惑をかける義務がある」とか。

――本の中では、声に出して読みたい名言がたくさんあって、“初鴉「生きるに遠慮がいるものか」(花田春兆)”とか、“男たちは、障害者運動に夢とロマンをかけ、女たちは、日々の生活をかけた。(内田みどり)”とか、痺れました。

荒井 ですが、実際に運動している人たちは、運動の哲学も、面白い言葉も、一般に広めることは難しい。そんな余裕がないからです。そうこうしているうちに資料はどんどん散逸していく。そういったものを語り継ぎ、一般の人たちにわかりやすく伝えていくストーリーテラーを障害者運動の中から出せ、というのは酷なことだと思う。

 「横田さんの車いすを押す人がいるように、ぼくは筆で横田さんと関わりたいです」とご本人にお伝えしたことがあります。障害者運動のことが心に響いた人であれば、そのことを草の根的に語り継いでいくべきだと思います。ぼくは人生のめぐり逢いの中で、花田さんと横田さんと知り合って、心を動かされた。だから、そこで教わったことを書き継ぐ。それは問題提起を受け止めた側の一つの関わり合いだと思います。

共生のための「怒り」

――最後に、タイトルの『どうして、もっと怒らないの?』は、晩年の横田さんの口癖だったようですが、どのような思いが込められている言葉なのでしょうか。

荒井 横田さんは「障害者差別に対して史上最も熱く怒った人物」だと思っています。「怒り」の感情は一般的には嫌われますが、横田さんのような障害者にとって、最後に残された自己表現は「怒り」でした。「怒りでしか守れないもの」を訴えたのが、70年代の障害者運動だったとぼくは捉えています。

 怒りと憎悪は違うものです。横田さんは共生のために怒りました。ともに生きていくためのルールをつくったり、それをされてしまうと自分は生きていけないから抗議したりするものが怒り。憎悪には葛藤がなく、相手の存在を拒絶し排除します。

 ウーマンリブの運動家・田中美津さんも「他人の痛みじゃ戦えない」と言っていています。これ、裏返せば「自分の痛みを見つめろ」ということです。自分が何者なのかを内省的に見つめていけば、怒らないといけないところが見えてくる。差別にあって、馬鹿にされて苦しい思いをしているのであれば、その思いをかみしめるうちに、世の中のでこぼこが見えてくる。制度や政策の黙っておれない点も見えてくる。自分を見つめたうえでの「怒り」をぼくは支持したいと思っています。
(取材・構成/山本ぽてと)

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