台風15号に続いて大型の台風19号が関東を直撃したことで、各地で浸水の被害が相次いだ。このところ、立て続けに自然災害が発生していることから「日本は災害大国である」という発言をよく耳にするようになった。
実際、その通りであり、日本は昔から自然災害が多発する国だが(近年、気候が大きく変化しているという現実を差し引いても、日本は災害が多い)、つい最近まで、日本人は自国について「諸外国と比べて地理的条件が良く、気候が穏やかで住みやすい国だ」と自己評価していた。
こうした認識バイアスの存在は、実はインフラ整備のあり方など政策にも影響を与えている可能性が高い。日本人はこうしたバイアスがかかりやすいので、社会問題について議論する際には注意が必要だ。
日本は世界屈指の災害大国
自然災害による被害を受けやすいかどうかは、その国の地理的条件と経済水準によって変わってくる。もともと災害が起きやすい国でも、経済水準が高くインフラ整備が進んでいれば災害による被害は軽減できるし、地理的条件が良好でも貧しい国は被害を受けやすい。
日本は地理的条件から考えると、災害の宝庫といってよい。日本の国土はとにかく山が多く、国土の約7割が森林というかなり特殊な国である。フランスやドイツ、英国などと比較すると一目瞭然だが、日本は山ばかりであり、高速鉄道にも無数のトンネルや鉄橋が存在している。国土が縦長で、山が多いことから、河川の平均的な斜度が著しく高く、当然のことながら土砂崩れや洪水が発生しやすい。
また日本の海岸線は世界でも希に見る長さとなっており、津波の被害を受けやすい。そのうえ台風がかなりの頻度で通過する地域であり、しかも世界有数の地震大国でもある。日本海側を中心に豪雪地帯も多いが、これほどの豪雪地帯に大都市がいくつも展開している国はかなり珍しい。
つまり日本は地理的条件から災害が多発する国なのだが、日本人はそうした感覚をあまり持ってこなかった。
昭和の時代までは、「日本は気候が温暖であり、自然災害が多い諸外国と比較して住みやすい国である」という認識が一般的であった。他国の洪水や竜巻、ハリケーンなどの被害が報道されるたびに「日本に生まれてよかった」と会話する人は多かったし、「日本は他国と比較して恵まれているのだから感謝すべきだ」と吹聴する人も少なくなかった。
だが昭和の時代に災害が少なかったのかというと、決してそうではない。1959年の伊勢湾台風では死者5000人を出すなど、阪神・淡路大震災に匹敵する被害だったし、その後も、台風の襲来で鉄橋が破壊され、そのまま私鉄が倒産するといった話も日常茶飯事だった。
地方の災害にはまったく無頓着
東日本大震災は津波の被害が甚大だったことから、多くの国民に衝撃を与えたが、宮城県では1978年にも巨大地震が発生している(宮城県沖地震)。だが、ほとんどの人はこの地震について記憶にすらないだろう。
津波も同様である。1960年にチリで発生した巨大地震の影響で、三陸海岸一帯が津波で壊滅的な被害を受けたが、この話については「そんなことがあったのですか?」といった具合だ。
近年も各地で地震や水害などの自然災害が多発しており、犠牲者も出ているが、メディアが大きく報じない地方の災害は事実上、無視されてきたといってよい。地方在住者の中には、日本社会が地方の災害をあまりにも軽視するので、憤っている人も多いのではないだろうか。
昭和の時代までは日本はまだ貧しく、自然災害への対処方法が限定されていたので、社会的な関心が薄かったという側面があるかもしれない。さすがに近年は、日本人の生活水準も多少は向上し、欧米水準に近づいたことから、災害に対する関心も高まってきた。だが、今の時代においても、耐震性に問題のある脆弱な木造建築が多数、建設されているという現実を考えると、やはり社会全体における災害への関心は低いと言わざるを得ない。
これに加えて近年は、日本経済が貧しくなっていることから、インフラ整備の頻度が落ちているという指摘も出ている。もともと災害が発生しやすい地理的条件に、経済の貧困化が加わると、状況が一気に悪化する可能性がある。これからの時代は、災害に関する従来の常識は通用しないと思った方がよいだろう。
自国を愛することと、優越感を持つことは違う
では、日本人はなぜ、自国が抱えるリスクについて誤解してしまうのだろうか。これにはさまざまな要因があるので簡単に解明できる話ではないが、日本人は極めて自己肯定しやすい民族であるというのは間違いないだろう。
以前、タレントの厚切りジェイソン氏が、「日本は四季があるからスゴい」という話題に対して、諸外国にも四季はあると反論して炎上騒ぎになったことがあったが、四季は日本特有のものと考える人はいまだに多い。あらためて説明するまでもないが、一定以上の緯度がある場所であれば、当然ながら地軸の傾きによって、どこでも四季が発生する。
地理的な条件で、四季がはっきり区別できる地域とそうでない地域に分かれるのはその通りだが、日本と同様に美しい四季が存在する地域はたくさんある。秋のパリや、冬のニューヨークは、東京と同様、息を呑むほど美しいし、米国にも紅葉の名所がたくさんある。ビバルディの「四季」は誰でも知っているクラシックの名曲だし、中国には「春秋」という有名な古典がある。
生まれ故郷の風景や気候を愛するのは万国共通の感覚なので、日本人が日本の四季を美しく思うのは当然だが、四季そのものは、他国にも存在するものであり、日本特有の現象ではない。自国の風景に愛着を感じるのはよいことだが、これが行き過ぎると、自国について客観視できなくなってしまう。災害が多発する国土であるにもかかわらず、そう認識してこなかったことにはこうしたバイアスも関係しているだろう。
では、日本人は自国の風景や気候が特別に優れているという感覚を持つようになったのだろうか。ひとつの源流と考えられるのが、明治時代のベストセラー「日本風景論」である。
明治期の地理学者で評論家でもあった志賀重昂は、日本の風景は他国と比較して優れているとした「日本風景論」を1894年に出版し、ベストセラーになった。出版されたのが日清戦争開戦の年ということもあり、日本におけるナショナリズムの代表作のひとつとなったが、本書をサイエンスの本として見た場合には、誇張や事実誤認がたくさんあり、正しい記述がなされているとはいえない。
母国の風景や気候を愛する気持ちを抱くのは自然なことだが、それは日本人に限った話ではなく、諸外国の人も皆、同じ感覚を持っている。自国に対する愛情を超えて、自国が他国よりも優れていると一方的に認識するようになってしまっては、状況を客観的に認識できなくなる。
国力が低下している今こそ、日本が置かれた状況について冷静に受け止め、有効な対策を実施できるよう、合理的な議論を進めるべきだろう。