
「Getty Images」より
言葉は生き物と言われる。日々刻々と変化するからだ。「歌は世につれ世は歌につれ」というフレーズもある。歌は社会の変化によって変わり、社会は歌の流行によっても左右されるという意味だが、「歌」を「言葉」に置き換えても成り立つように思う。
言葉の変化は日本に暮らしていても気付くことだが、筆者のように外国に長年暮らすとさらに強く感じる。日本を出た時点での日本語が定着し、以後、変化が止まってしまうからだ。
具体的に言うと、20年ほど前に渡米し、アメリカに永住している筆者の日本語は20年前のものだ。それ以後に生まれた流行語、新語はあまり身に付かない。言葉そのものは同じでも使われ方が変わったケースにもなかなか対応できない。
たとえば、筆者にとって「ヤバい」は「何か危険、危ない、際どい」と言った意味を持つスラングであり、「かっこいい」「可愛い」「イケてる」など肯定的な意味では使えない。そもそも「イケてる」もすでに死語ではないか。いや、「死語」こそ、もう誰も使っていない言葉だろう。
第二次世界大戦後に米兵と結婚して渡米した戦争花嫁と呼ばれる女性たちは、今とは全く異なる言語環境におかれた。当然インターネットなどなく、移り住んだ地域によっては日本人が全くいない。日本語を話す機会はほとんどなくなり、20年も経つと時には日本語がすっと出て来ないことにもなったようだ。
今はネットで日本語に毎日触れられる。どこに住んでもまず日本人がいて会話も出来る。それでも日々微妙な変化を続ける日本語の渦中には居ないことから、海外在住者の日本語は日本在住者のそれとは異なるものになっていく。それゆえネットや、日本から時々やってくる友人や家族などとの会話で最新の日本語に触れ、「!」または「?」となるのである。
以下は筆者が近年、何かしらの変化を感じた日本語だ。新しい言葉もあれば、以前よりある言葉の意味が変化したものもある。いずれにしても、おそらくは今の日本社会を反映した言葉ではないかと思う。
「迷惑」
もちろん昔からある言葉で使われ方も昔と同じだが、近年の使用頻度の高さに驚かされる。どんな些細なことも、逆に人権侵害ではないかと思える件まで、すべて「迷惑」の一言で語られているきらいがある。
他者の行為を不快に感じれば、それが「迷惑」だが、純然たる迷惑として抗議すべきケース(自宅前にゴミを置き捨てられたなど)と、自分には多少不都合であっても受け入れるべきケースがある。環境的に受け入れられないケースでは折衷案や改善策を考える必要もあるだろう。それを「迷惑」と切り捨て、挙句に「迷惑をかけた」人物を激しくバッシングする傾向がSNSには見られる。
例としては電車のベビーカーだ。定期的に起こるベビーカーを持ち込む母親へのバッシングのあまりの凄まじさに、海のこちら側からおののいたものだ(今は双子ベビーカーで再燃しているようだが)。
ちなみに上記とは別の「迷惑」もよく見掛ける。台風など災害時に電車が運休となった際、「大変なご迷惑をお掛けします」といった文言が使われる。天災なのだから運休は不可避であり、それどころか天災の最中に電車を走らせて招くかもしれない二次災害を防ぐための運休が、迷惑なのだろうか。
実際の文面を見ようと検索すると、数年前の台風で電車が立ち往生して車内に乗客が閉じ込められた”問題”で、JRが「雨量への見通しが甘く、多大なご迷惑をかけたなどと陳謝」という記事に行き当たった。JRの幹部3人が記者会見で頭を下げている写真が添えてあった。閉じ込められた乗客に謝罪し、もし必要であれば何らかの補償をし、「雨量への見通し」を向上させる努力は要るが、ここまで平身低頭すべき「迷惑」ではないと思える。
こうした「迷惑」への「陳謝」は、単なる風習なのだろうか。それとも「陳謝」しないとバッシングされるため、回避策として行われるのだろうか。一般市民はここまで「陳謝」されないと、「これほど迷惑を掛けておきながら!」と激怒するのだろうか。
「ズルい」
「ズルい」も以前に比べると使用頻度が相当に高くなった言葉だ。
人が自分より優れていたり恵まれていると、多くの場合「羨ましい」感情が湧く。しかし相手が優れている理由が納得のいかないものであれば、感情は「ズルい」に変わる。
「ズルい」は相手への妬みではなく、自分の不運を不当と感じ、自身の不幸を呪う言葉なのかもしれない。
英語にも “It’s unfair.”(そんなの不公平だ)という決まり文句がある。子供が自分だけお菓子をもらえなかったりすると、ほぼ必ず出るセリフだ。すると親や先生は結構な割合で “Life is unfair.”(人生は不公平)と答える。幼児にまで言う人もおり、最初は驚いた。だが、幼い子供であっても日々の出来事のすべてが100%公平であるはずはない。お菓子はもらえたとしても自分だけ量が少なかったり、最も好きなお菓子が他の子に与えられてしまうこともある。
”Life is unfair.”(人生は不公平)に続けて、もうすこし大きな子供や大人に対しては “Get over it.” (立ち直れ、ケリを付けろ)と言うことがある。どうしようもないことでいつまでもクヨクヨして時間を無駄にせず、さっさと前に進めというニュアンスだ。
さらに先日、あるJA小説(ヤングアダルト小説)を読んでいると、人種差別という自分ではどうしようもない不条理に晒されている登場人物が “Push through it.”(かき分けて進め)と語るシーンがあった。職場での人種差別は初めてではないし、今後も無くならないだろう。しかし仕事に情熱を持つ自分はその中をかき分け、進むしかないという意味だ。
”Life is unfair.”(人生は不公平)、”Get over it.” (立ち直れ、ケリを付けろ)は、どちらも「割り切り」に基づく言葉だ。ただし「諦め」ではない。上記小説での”Push through it.”(かき分けて進め、突き進め)も、職場での人種差別撤廃を諦めているわけではない。日々の差別のすべてに毎回心を折っていては前に進めないため、スルーすべきものはスルーし(つまり割り切って)、自分の関心事に専念するのだ。
「ズルい」の多用は、もしかすると割り切って前に進む気概を、今の日本が感じさせてくれないからなのだろうか。
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