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日本社会には圧倒的に「メディアリテラシー」が足りない/森達也インタビュー

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©2019「i -新聞記者ドキュメント-」

 今月15日より森達也監督の新作映画『i-新聞記者ドキュメント-』が公開される。
 これまで、オウム真理教や佐村河内守といった被写体を対象に「日本社会とメディア」を描いてきた森監督が今回テーマとして選んだのは、東京新聞社会部記者の望月衣塑子氏。
 『i-新聞記者ドキュメント-』は望月氏に密着するなかで、日本のジャーナリズムが抱える問題が次々と炙り出していく。
 なぜメディアは「権力の監視役」の役目を放棄しつつあるのか、また、そんな時代において我々がするべきこととはなにか、森監督に話を聞いた。

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森達也
1956年、広島県呉市生まれ。ドキュメンタリーディレクター、ノンフィクション作家。オウム真理教信者達の日常に迫った1998年公開作品『A』は、ベルリン国際映画祭に招待されるなど国際的にも評価されている。その後も、映画『A2』、「放送禁止歌〜歌っているのは誰? 規制しているのは誰?〜」(フジテレビ)、「ドキュメンタリーは嘘をつく」(テレビ東京)、映画『FAKE』といったドキュメンタリー作品でメディアの問題を描き続けてきた。主な著作には『放送禁止歌』(光文社)、『下山事件(シモヤマ・ケース)』(新潮社)、『A3』(集英社インターナショナル)、『すべての戦争は自衛から始まる』(講談社)、『ニュースの深き欲望』(朝日新聞出版)などがある。

──『i-新聞記者ドキュメント-』を拝見してまず印象的だったのは、望月さんの強さです。

森達也(以下、森) 望月さんは本当に強いメンタルの持ち主ですよ。でも映画を観てくれればわかるけれど、強いだけの女性ではない。ならばなぜこれほどに強くなれるのか。そこにこの映画のテーマと繋がる要素が隠されていると感じます。
 オウム真理教に密着したドキュメンタリー映画『A』(1998年公開)を発表した後、よくいろいろな人から質問されました。「なぜあなただけが撮れたのか」「なぜあなただけがオウム施設内に入れたのか」と。答えは「『撮っていいですか?』と聞いたら『いいよ』と言われたから撮れた」です。
 つまり、あの時期に取材しようと思えば、もっとたくさんのメディアがオウムの内部に入って撮影できたはずなんです。でも、誰もそれをやらなかったから、結果的に僕の映画だけが突出した存在になってしまった。そこでさらに訊かれます。ならばなぜ他の記者やディレクターたちはオウムと交渉しようとしなかったのか。でもそれは、僕ではなく他の記者たちに訊くべき質問ですよね。僕は普通のことをやっただけですから。 
 これ以上は言わないけれど、望月さんと他のメディアの関係にも同じ構造が重なります。会見の場で鋭く質問する。これは記者として普通のことです。納得した答えが出てこないなら、2回、3回と食い下がって聞く。それも記者として当たり前のことです。でも、まわりが当たり前のことをしなくなっているから、浮き上がって見える。そういう意味では、似たものを感じます。
 とはいえ、やっぱり彼女は僕より強い。だって何年間も官邸から反感を買いながら質問し続け、同業の記者からも批判され続けている。僕ならとっくに尻尾を巻いて撤退している。

──すごい強さだと思います。

森 つい先日、中国のメディアから取材されたとき、こんなことを言われたんです。「中国には中国共産党という圧倒的な権力をもつ組織があって言論や表現の自由を上から抑え込んでいるけれど、国民の多くはそのことに気づいている。一方日本は、中国共産党みたいな強圧的な存在はないけれど、空気が言論や報道を支配している。でも、空気は目に見えないから、国民はそのことをよく理解していない」。……返す言葉がなかったですね。

──どうしてそういう状況になってしまっているのでしょうか?

森 そもそも空気や場が強い国です。集団との親和性も高い。さらに近年は、「セキュリティ意識」が過剰に発動しているからです。

──セキュリティ意識?

森 映画の撮影中、彼女が様々なメディアからインタビューを受けているところも撮ったけれど、「身の危険はないですか?」という質問が多かった。僕もオウムを取材していたとき、周囲の人から同じように、「オウムは危なくないか」とか「公安に監視されていないか」とか、いろいろ質問されました。
 100%安全とは言いません。でも僕から見ればあまりにセキュリティ意識が過剰です。その帰結として自己規制する。その傾向が強まっています。もっと自由に発言したり書いたり撮ったりしていいんです。

──とはいえ、怖がるのも分かります。

森 不安と恐怖の領域がとても大きくなっている。ネットは炎上する。組織内で責任を取らされる。脅迫の電話やメールが来る。万が一の事態が起きたらどうするんだと言われたら、誰も言い返せなくなっている。万が一なんて常に起きます。僕も今日の帰りに万が一車にはねられて死ぬかもしれない。リスクをいかに少なくするかと考えることは間違っていない。でもリスクをゼロにはできない。ゼロにしようと思ったら、家から出ないことです。何もしなければいい。こうして展示や上映ができなくなる。政治権力が不都合な表現や報道を抑え込むことが容易くなる。その状況が加速しています。

──大手メディアなんかでは上司から「待った」がかかることもあるでしょうね。

森 会社がリスクヘッジを最優先にしようとするのは当たり前です。組織ですから。でもリスクをゼロにしようとするならジャーナリズムは機能停止します。
 だからこそ組織の論理に対して、記者やディレクターたちは“個”をしっかりもつ。そのせめぎ合いが組織ジャーナリズムのダイナミズムのはずなのに、個が組織に完全に従属してしまっている。これが日本のメディアとジャーナリズムの大きな問題です。

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森達也監督(撮影:編集部)

ドキュメンタリーは嘘をつく

──メディアには「公正中立」という基本原則があって、みんなその呪縛にとらわれているようにも思います。

森 僕はまず「公正中立」は不可能だと思っています。どんな意見であろうとそれは非常に恣意的で人為的なものですよね。
 それならば、自分自身を主語にして「自分はこう見えた」「自分はこう思う」と記述する方が誠実だと思う。
 それを公正中立な視点が可能であるかのごとく、「神の視点」で書いてしまうことのほうが、よほど不誠実だと思います。

──「神の視点」って、まさしくそうですね。

森 もちろん、客観公正や中立を必死に標榜することは、ジャーナリストとして大切です。でも同時に、情報とはすべて個の視点で、絶対的な客観性や中立は無理なんだとしっかりと意識することも重要です。その負い目をなくした瞬間に、ジャーナリズムは正義になってしまう。それは違うと思う。
 現状において新聞は部数を落としているし、テレビも見る人が減ってきた。既成メディアにとって冬の時代です。だからこそやり方を変えて、自分を晒さなくてはならないときに来ていると僕は思う。

──欧米が顕著ですが、海外では情報の受け手も成熟していて、記者による一人称のオピニオンを飲み込む度量がある社会だと感じます。

森 そうした記事に触れることで社会のリテラシーも成熟します。この国は道徳を教科化したり英語の試験方式を変えたりする前に、小学校からメディアリテラシーについて教える授業があった方がいいと思いますよ。

──メディアリテラシーの授業ですか。

森 メディアリテラシーを身につけるって大変なことだと思っている人が多いけど、基本メソッドはとても簡単なことなんです。
 大事なことは2つ。ひとつは、情報とは誰かが書いたり撮ったりしているものなのだと意識すること。つまり誰かの解釈です。そしてもうひとつは、世界は多面的で多重的で多層的なものであり、「どこから見るか」で変わるのだと知ること。
 この2つを組み合わせれば、いろんなものを見聞きしながら判断し、自分だけのオピニオンをつくる作業に移行することができるわけです。
 情報は常に相対化されるべき。どんな情報も多面的なのだから、それは当然のことです。
 そうすれば、自分が見ているのも、単なるひとつの視点に過ぎないということに気がつくはず。ニーチェが「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」という言葉を残していますが、まさしくそれですよ。

──それって、メディアに限った話ではなく、人と人のコミュニケーションでも同じですよね。

森 まったくその通り。会社の気に入らない先輩と、たまたま帰り道でビールを一緒に飲んだら、それからは全然違う印象になったとか。

──あります、あります。

森 人間だって、多面的で多重的なわけです。それに気づいたら社会は侮れないって思うはず。人にも優しくなれる。フラットなものじゃないんだと。それが分かった人生はきっと楽しいし、実りあるものになると思いますよ。

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