
山崎雅弘氏
政府間の対立がエスカレートして泥沼化したように見える日韓問題。両国の関係がこじれた根本的な一因として、安倍政権やその支持者が掲げる「歴史修正主義」を指摘する声は多い。
国際社会の視線も同様だ。アメリカ「ワシントン・ポスト」紙は、日本で影響力を増す歴史修正的な考え方が東アジアにおける平和を脅かし、世界経済にも悪影響を与えかねないとはっきり指摘している。
しかし一体なぜ、歴史修正主義は日本でこれほどの力を勝ち得たのか?
南京大虐殺否定論などにおける歴史修正のレトリックを暴きだした新書『歴史戦と思想戦──歴史問題の読み解き方』(集英社)を上梓した戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏に話を聞いた。

【山崎雅弘】
1967年、大阪府生まれ。戦史・紛争史研究家。主な著書に『中国共産党と人民解放軍』(朝日新聞出版)、『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社)、『1937年の日本人』(朝日新聞出版)、『「天皇機関説」事件』(集英社)、『沈黙の子どもたち──軍はなぜ市民を大量虐殺したか』(晶文社)などがある。
──「歴史修正主義」が力をもつことでどんな問題が起こるのでしょうか?
山崎雅弘(以下、山崎) 「歴史修正主義」とは、南京虐殺否定論や、慰安婦問題の非人道性を否定する言説などを指しますが、まず、歴史修正主義者たちがこうした歴史の歪曲を「なんのために」やっているのかを知っておく必要があると思います。
──彼らはなにを目的に従来の通史を書き換えようとしているのでしょうか?
山崎 日本における歴史修正のパターンを見ていくと、すべて最終的には同じ点に到達します。
それは、「大日本帝国の名誉と威信を守る」ということです。
そのために、過去に大日本帝国が犯した不都合な出来事をなかったことにする。つまり、大日本帝国が周辺の国や地域に対して行った非人道的な行為を否定するわけです。
南京虐殺や慰安婦問題の事実を書き換える行為は、あくまで大きな目的のためのプロセスであって、それ自体が目的というわけではないんですよね。
──なるほど。
山崎 これは外交的にはマイナスしかもたらさないことです。なぜなら、いまの国際社会で大日本帝国に肯定的な国は1つもないからです。
逆は数多くあります。中国や韓国だけでなく、シンガポールでも日本軍に虐殺された人々のことが語り継がれていますし、イギリスやオーストラリアでも戦中の日本軍が連合軍捕虜に対して行った蛮行は批判され続けています。
第2次世界大戦後の国際秩序というのは国際連合を中心にしてかたちづくられてきたわけですけど、国連はそもそも、ナチスドイツおよび大日本帝国と戦った連合国が両国のようなファシズム国家の再興を防止する目的も含めて組織された国際協議機関です。
国際的に見れば、大日本帝国というのは「負の象徴」のひとつであるわけです。
だから、大日本帝国を否定せず、それどころかその名誉と威信を守ろうとすることは、国際社会の中で孤立するリスクを伴います。
──日本においても一般的な戦後教育を受けた人は、基本的には「大日本帝国は負の象徴のひとつ」という感覚だと思うのですが……。
山崎 第2次世界大戦後の日本に生きる人々は、日本国憲法で保障された基本的人権や自由を謳歌してきたのに、なぜわざわざ、人権が制限されて自由もなかった時代に魅力を感じるのか?
それは、その人たちは自由や権利を獲得することよりも、「自分が立派な集団の一員であり、強大な権威の庇護に置かれていると感じることによって、自分自身の存在価値を確認できる」ということに重きを置くからだと思います。
──「自由」より、行動や権利を規制されてでも「なにかに属している」ということの方に魅力を感じるのですか。
山崎 これは日本に限ったことではなくて、普遍的な話でもあります。
社会心理学や精神分析の研究者であるエーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』という本のなかで、ナチスドイツが勃興した理由を同じように読み解いています。
「自由」って、それを使いこなすことのできる人にとっては有益なツールですけど、そうでない人にとっては負担になるんですよ。
──「自由」を負担に思う人もいる。なぜでしょうか。
山崎 自由は「ひとりひとり好きなことをやっていい」ということですが、それが心地いいという人もいれば、逆に不安になってしまう人もいる。
自由をどのように使いこなせばいいか分からないがゆえに、自由であることよりも「自分は立派な組織の一員である」「立派な組織のなかで役割を果たしている」と感じることで生きがいを得る人もいるわけですよね。
──その感覚は分からなくもない気はします。
山崎 そうした権威主義的な人にとって、大日本帝国というのは完璧なパッケージなんですよ。
大日本帝国では、神話と現実をごちゃ混ぜにするかたちで天皇の権威を高め、国民は宗教的な思想を背景とした絶対的な権力構造の下に置かれた。
天皇が権威をもっている根拠は神話のベールに隠されているので誰にも検証できない。検証できないので、絶対的な存在としての天皇の権威は際限なく高められていきました。
すると相対的に、国民の権利や自由、命は際限なく軽くなっていった。その到達点として起きた悲劇が先の戦争です。
──悲劇を引き起こした大日本帝国的な価値観は戦後いったん否定され、二度と同じ過ちを繰り返すまいという反省が今日まで受け継がれてきました。それがなぜ現在の日本で再び力をもち始めたのでしょうか?
山崎 2011年3月11日がきっかけのひとつになったと思います。
あの日以降「絆」という言葉がよく使われるようになりましたよね。これは要するに、孤独感を慰めるための言葉です。
未曾有の災害に直面した不安から、人々は自分も集団の一部であり、周囲との「絆」があると確認したがった。そのときに使われたのが「日本人」という民族集団としての意識なんです。
──「日本すごい」ですね。
山崎 そのあたりを契機に「日本人はいかにすごいか」をテーマにしたテレビ番組が出てきて、「外国から来た人は日本文化のここが好き」とか「日本の技術力に世界が驚いた」とか自国礼賛の優越感をくすぐるようなコンテンツが増えました。
昔から大日本帝国的な権威主義に惹かれる人は一定数いましたけれど、3.11以降その数は急激に増え、そうした空気感のなかで登場したのが2012年12月に発足した第2次安倍晋三政権ということだと思うんですね。
安倍政権およびその支持層というのは、まさに大日本帝国的な精神文化を継承しようという集団なので、需要と供給が一致したと言えるのかもしれません。

山崎雅弘『歴史戦と思想戦──歴史問題の読み解き方』(集英社)
日本の教育は「個人」を確立できなかった
──根本的な疑問なんですけど、なぜそんなに権威にすがりたがるのでしょうか?
山崎 戦前、戦中はもちろんですけど、戦後も、そして現在にいたるまで、民主主義の根幹である個人主義の教育をやってこなかったということに尽きるのだと思います。これは重大な問題です。
──なるほど。
山崎 いまも昔も、「集団に合わせる」とか「親、先生、先輩の言うことには従う」という基本的な教育の構図は変わっていない。
個人としての価値を認め、「各人が独立して思考・行動していい」ということを教えてこなかった。
──重要な指摘です。ゆとり教育も「考える力を養う」という目的で行われた施策でしたが、広く効果があったのかは結局のところ微妙です。
山崎 ひとりひとりが「個人」として自分自身の人生を生きていれば、本来はどんな集団に属していようと関係ない。そういう感覚をもっているのなら、日本人であろうとなかろうと、国籍や民族には大した意味がないと理解できるはずなんですよ。
──まさしくその通りだと思います。
山崎 また、マジョリティーに属して自尊心を保つ心の動きは、自らの権威を守るために、外敵を設定して攻撃する動きにつながります。
女性に対する蔑視や差別、中国・韓国などアジア諸外国に対する排外主義、日本在住の外国人への差別、生活保護受給者や障がい者などへの弱者バッシング、こういったものはすべて権威主義の結果として起きていることだと思います。
──権威主義がもたらした弊害のひとつとして「メディアの忖度・萎縮」もあると思います。なぜこんな暗澹たる状況になってしまったのでしょうか?
山崎 与党と野党の力関係に関してはその時ごとにバランスは違いますが、どうして昔はここまでの権力の暴走が起きなかったかといえば、やはりメディアが権力を監視できていたからだと思うんです。
野党が弱いときでも、あまり横暴なことをやっていたらメディアが批判的に報道して国民の怒りを買い、その結果、選挙で落とされる。そうやってなんとかうまくバランスが取れていた。
でも、第2次安倍政権になってから、メディアがそれをやらなくなったんです。
それでなにをやっているかというと、傍観的な立場からの報道ばかりするようになった。
たとえば、森友・加計問題とか、桜を見る会の問題とか、なにかスキャンダラスな話題が出てきたら「これは国民への背任である」と自らの言葉で批判をしなければならないはずなのにそれをせず、条件反射的に野党議員のコメントを用いるかたちで「野党からはこのような反発の声が出ています」とニュースを締めてしまう。
──言われてみれば、確かに、そういう切り口での報じ方が増えた気がします。
山崎 メディアは権力を監視し、批判するのが本来の役割であるはずなのに、その仕事を自ら放棄し、代わりに野党に負わせている。
そうした報道により「権力者を批判するのは野党の仕事である」という誤解を国民の間に広めた結果、なにが起きているかといえば、「与党の暴走を止められない野党は不甲斐ない」という野党批判です。議席数が少ないのだから負けて当然なのに。
だから、メディアにも「権力を監視・批判する」という役割が必要とされているわけでしょう。
安倍首相が在任期間歴代最長の総理大臣になった背景には、こういった構造があると思います。
新聞やテレビを制作している人にとっては、それが一番日々の業務を円滑に進めることのできるやり方で、快適なのかもしれない。
しかし、彼らは、今日明日を心地よく過ごすためにそのような仕事をすることが、これから先の未来にどんな悪影響をおよぼすかを認識するべきです。
──メディアはなぜそんなことになってしまったのだと思われますか?
山崎 結局これも先ほどの話につながってきますけど、皆が「個人」を確立した大人になれていないということなのだと思います。
──話がつながってきますね。
山崎 日本の教育では、親や教師の顔色をうかがって、彼らが望むことを、言われる前から先回りして行う子が「いい子」とされるわけですよね。
大手メディアに採用されるような学業優秀な人は学生時代に高い評価を受けてきた人でしょうから、そういった価値観に順応するのは自然なことなのかもしれません。
これまで権威や権力を疑うことなく成長してきた人が、社会に出ていきなりそれを疑う仕事ができるかといったら難しいですよ。そのための能力も鍛えていないし、場数も踏んでいないわけですから。
それでも昔は、上司になにを言われてようと自分の信念を貫き通した記者がいたものですが、いまは組織のなかでそうした人に居場所がなくなってしまったのでしょう。
だからこれは、取材する記者の志とかそういう個人レベルの話ではなく、構造的な問題なのだと思いますね。
──こういった現象が表面化したのが安倍政権以降なので安倍首相の問題だと捉えられることが多いですけど、いまのお話を聞くと実は根っこには様々な問題が複雑に絡み合っているので、近い将来、安倍政権が終わっても現在起きている問題は引き続き起き続けるのかもしれません。
山崎 そうだと思いますね。安倍晋三が問題の根源ではない。安倍政権の横暴やひとり勝ちは単なるひとつの結果に過ぎません。状況が違っていたらこのような事態にはなっていなかっただろうし、そもそも彼は首相にすらなっていないかもしれない。
2010年代の日本でなぜこのようなことが起きてしまったかということに関しては後々、歴史的な検証がなされるべきだと思います。
(取材、構成:編集部)