
「GettyImages」より
世界的にみて、男性は仕事、女性は家事・育児という性別分業は崩れつつあります。しかし日本では、共働きではあるものの、男性には稼ぐことを求め、女性には家事育児を求めるという矛盾が生じ、「共働きは辛い」と嘆く声が絶えません。こうした問題の根っこには、私たちが“常識”と思い込み共有している価値観があります。
そこで立命館大学で働き方や家族について研究をしている筒井淳也教授が、家族と労働にまつわる「当たり前」をやさしく解きほぐす連載をはじめます。今回は近代日本の労働の歴史。「男性が外で働き、女性が家で働く」という家族の生活は日本の“伝統”で、自然な形なのでしょうか?

筒井淳也
立命館大学産業社会学部教授。専門は計量社会学、家族社会学、働き方についての研究。内閣府少子化社会対策大綱検討委員会。著書に『仕事と家族』(中公新書)、『結婚と家族のこれから』(光文社新書)、『社会学入門』(有斐閣)など。
家族や働き方のかたちの歴史や事実は、しばしば私たちの常識と異なっています。「日本で最初に雇われて本格的にお金を稼いだのは未婚女性だった」「フルタイムの共働き夫婦は、子育て世代の2割程度にすぎない」……こういった事実は、きちんと共有されているとはいえません。
この連載では、現在の女性の生き方につながる基本的な事実のおさらいをしていきます。今回は、「専業主婦はどのように生まれてきたのか?」について書いていきます。
共にフルタイムでたくさん稼ぐ夫婦は一握り
いま、日本も「共働き」の時代になってきたと言われています。それにつれて、人々が望むライフスタイルも、ゆっくりと共働きに近づいていた感はあります。東京圏に住む人ならば、夫も妻も都心のオフィスに通うのに、できれば通勤時間は1時間以内にしたい。二人の稼ぎがあるので、駅に近い高層マンションもなんとか購入できるかもしれない。結婚前のカップルの思い描く未来は、だいたいこんなふうではないでしょうか。
ただ、統計を見てみると、実はこういうカップルは日本のごく一部であることもわかります。
2018年の労働力調査によれば、子育て世帯の場合、夫がフルタイム(週35時間以上勤務)である夫婦の数を100とすれば、妻も同様に35時間働いているのは約18人しかいません。これに対して専業主婦は約38人もいます。残り44人ほどは、いわゆる「主婦パート」です。「共働き」をフルタイム共働きだとすれば、共働き夫婦は実はまだまだ少数派なのです。
「男性が外で働き、女性が家で働く」というあり方を、社会学では「性別分業」と呼ぶことがあります。日本では、まだまだこの性別分業が根強く残っています。この連載の初回では、そもそもなぜ性別分業が生じてきたのかについてお話をしましょう。きっと、みなさんが知らないことがいろいろあるはずです。
そのまえにちょっとだけ自己紹介をします。私は、社会学を研究しています。社会学といってもいろいろあるのですが、特に家族社会学、計量社会学、働き方の研究、といった分野で活動しています。そして今回のネタは、家族と働き方の両方に関係するテーマです。
かつて男は外で働いていなかった
みなさんにまず確認しておいていただきたいのは、「かつて男は(男も、ですが)外で働いていなかった」ということです。「外」で働くというのは、誰かに雇われて、会社で働くということですね。その会社自体、ほとんどなかったのです。
では何をしていたのか。「家」で働いていたのです。といっても、家事や育児ばかりをしていたわけではありません。実は、「家」あるいはその近くで働いている人は、いまでもたくさんいますね。そう、自営業の人や、農家の人です。
かつては、ごく一部の人を除いて、みんな家業の一員として働いていたのです。小規模な工作所や商店の場合、自宅がそのまま職場の人もいたでしょう。畑仕事の場合、自宅がそのまま仕事場というわけには行きませんが、ほとんどの場合、寝泊まりしている自宅の近くに畑や田んぼがあったのです。
自宅あるいはその近くが職場ならば、家族はごく小さな子どもを除いてみんな従業員です。むしろ子どもの方が、自宅から離れた学校(江戸時代は寺子屋、明治以降は学校)に通って自宅を空ける時間が長かったほどです。現代のサラリーマン生活になぞらえていえば、「家が会社、家族は従業員」といえるでしょう。社長はたいていの場合、男性(夫、父親)でした。
さて、ここで問題。最初に雇われて働くようになったのは、家族のなかの誰だったでしょうか。答えは、ケース・バイ・ケースです。「父親だろう」と考えてしまいそうになりますが、実は必ずしもそうではありませんでした。日本の場合、最初は「子ども」です。次に「娘」。これはどういうことでしょう。
娘が一家の大黒柱だった時代
「子ども」が家の外に働きに出るとは、いわゆる「丁稚奉公」のことです。奉公の慣習は、江戸時代には、かなりさかんに行われていました。家業の時代といっても、実は家族以外の者を雇うことがよくありました。他の家族の子どもが、有力な商家などに手習いで入るのです。この場合、子どもはその商家の家族と一緒の家に寝泊まりします。もちろん処遇は商家を営む家族と同じ、というわけにはいきませんが。
ただ、少なくとも丁稚の段階では、衣食住と職業訓練という「特典」がメインですので、お給金はごくわずかなものでした。ですので、「子どもが外で稼いで家族を食わせる」というわけではなかったのです。ちなみに丁稚の制度は、近代化されたあとも、1947年に廃止されるまで細々と続いていました。
次に、いよいよ会社の時代がやってきます。会社といっても、最初は工場です。産業資本家、カタカナで言うとブルジョアジーですが、この人たちが手元の資金で建てた工場で、多くの人を雇うようになるのです。
最初の工場は、繊維関係がメインでした。糸を紡ぐ工場、糸から布を織る工場です(布から服を作るのは、最初の段階では機械でできなかったので、手作業メインでした)。
日本の最初の本格的な、大規模な糸を作る工場がどこにあったのかご存知でしょうか。世界遺産にもなった富岡製糸場です。実に500人以上の働き手が、そこで高品質の絹糸(生糸)を作っていたのです。富岡製糸場は、当時の製紙工場としては世界最大規模だったと言われています。
さて、500人の働き手とは誰だったのかというと、そう、「女工」という言葉があるように女性でした。しかも未婚の若い女性です。女工は、家業や農業を営んでいた家から家長(父親)によって派遣されてくる、住み込みの派遣社員のような存在でした。彼女たちのなかには、規模の小さい家業や農業ではとても手にすることのできない大金をもらっていた人もいます。それこそ、一家の大黒柱ですね。一家の大黒柱が「まだ嫁に行っていない娘」である家がたくさん存在した時代が、かつてはあったのです。
産業化が世界で最初に進んだイギリスでは、家族全員が同じ工場で働いていたこともよくありました。産業化の初期では、とにかく工場の人手が足りません。資本家は、たくさんの人に、できるだけ長い時間働いてもらいたいのです。そこで、工場の近くに集合住宅を作り、朝になったらそこからお父さん、お母さん、子どもが職場である工場に出勤できるようにしました。
毎日満員電車で疲弊している日本人サラリーマンからすれば、「通勤時間が短くて良さそう」と感じるかもしれませんが、当時の工場での労働時間はすごく長いものでした。12時間以上は当たり前、16時間、週1日休日、というケースもありました。なかなかに厳しい状況ですね。一家団欒の時間もお金も、ほとんどなかったのではないでしょうか。
こういった工場と集合住宅が集まった場所のことを、工場村と呼ぶことがあります。工場村の経営者の中には、子どもにきちんと教育をさせようとしたロバート・オーウェンのような良心的な人もいました。ただ、全体的には家族総出で働くというのはなかなかに厳しい家庭環境であったといえるでしょう。
「工場法」の制定から「男は外・女は家」の時代に
そこで登場したのが「工場法」です。日本でも、1916年にはじまりました。工場法の趣旨は、「女性を家に、子どもを学校に戻す」ことにありました。家庭環境が荒むと、国全体の元気がなくなるかもしれない。子どもが最低限の教育を受けないと、これも国が強くなるチャンスを小さくしてしまうかもしれない。国を強くしたい政府のそんな思惑もあって、工場法が各国で制定されていきます。
そう、これが「主婦化」の本格的な始まりです。工場で働く男性が属する労働者階級の家族ではなく、経営者や都市に住む専門職(法律家や役人)の場合には、すでに女性が家のことを取り仕切るというライフスタイルが一般化していました。工場法をきっかけにして、労働者階級の女性もこのライフスタイルに憧れ、徐々に主婦という生き方が浸透していくことになります。
こうして、「男性が外で働き、女性が家で働く」という家族の生活が階級を超えてひろがっていったのでした。どうでしょうか。以上の話は、みなさんが思い描いていたであろう「昔から男は外で女は家であった」という流れとは、ちょっと違うストーリーだったのではないでしょうか。
そう、女性の働き方や家族のことについては、実は多くの人が間違った知識を持っています。この連載では、現在の女性の生き方につながるいろんな事実、意外な事実について、わかりやすく説明していこうと考えています。
最終的には、「女性も男性も、どうやったらもっと楽に暮らせるようになるのか」について書いていこうと思います。ただ、その前に働くことや家事をすることについての「当たり前」の思い込みを解きほぐしていくことにしましょう。