取り残されたメンタルヘルス後進国・日本

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2019年現在「メンタルヘルス」の世界標準は?

 2018年10月30日にWHOが公開した、「Mental health: strengthening our response」という文書がある。ここに、WHOによる最新の「メンタルヘルス」観が示されていると考えてよいだろう。冒頭の「まとめ」的な項目には、以下のように述べられている(筆者訳)。

1. メンタルヘルスは、「精神疾患がない」ということ以上の何かである。
2. メンタルヘルスは健康の不可欠な一部であり、メンタルヘルスを除外した健康は考えられない。
3. メンタルヘルスは、社会的・経済的・生物学的・環境的要因によって規定されるものである。
4. 「コスパ」のよい公衆衛生戦略・分野横断的戦略・介入の方法が存在し、メンタルヘルスを増進したり保障したり回復したりすることに役立つ。

 精神疾患と診断されない限り、「メンタルヘルスの問題はない」というわけではない。上司のパワハラでメンタルヘルスが損なわれていて会社に行きたくない状態なら、精神疾患に至っていなくても、健康とはいえない。なんとか出勤して仕事をこなせているけれども、朝から夕方まで「こんなパワハラ上司のいる場所、いるだけで苦痛だ」と思い続けている状態なら、健康とは言えない。あなたがイジメに遭っていたり、お金がなくて「貧すれば鈍する」という状態であったり、激しい腹痛や発熱があったり、暑すぎたり寒すぎたり、家に「毒親」がいたり、近隣トラブルがあったり、空中を舞う大量の杉花粉が鼻や眼を刺激し続けていたりする時、あなたのメンタルヘルスは損なわれているはずだ。WHOは、これらの「腹落ち」する事柄を、メンタルヘルスの原則として認めているのである。

 数多くのメンタルヘルスの課題を解決するにあたって、多額の医療費や医薬品費用、入院や施設収容のコストが必要になるわけではない。入院や施設収容は、それ自体のコストが多大であるだけではなく、その人を家族・友人・地域社会から切り離すことになる。したがって、戻ってくる時には「受け入れ」「適応」のためのコストが必要になる。この面からも、隔離収容の「コスパ」は悪いと考えられている。

 入院を必要とするほどの事態ではない場合も、基本的には同じだ。もしも、あなたのメンタルヘルスを損なっている要因がパワハラ上司なら、あなた自身には、精神科や心療内科を受診するという選択肢がある。処方された向精神薬を服用し、不安焦燥感の低減と不快な副作用を我が身に受け止めることができる。自費でカウンセリングを受けることもできる。しかしそれらは、放火犯が放火しようとしているのを知っていて、わざわざ放火するまで待ち、それから消火活動を始めるようなものだ。本末転倒である上に、「コスパ」も良くない。最大かつ根本的な対策は、職場風土の健全化であろう。それは、パワハラによるメンタルヘルス低下コストをなくすことに役立つだけではなく、業務のパフォーマンス向上などのベネフィットももたらす。

 以上が、2019年現在の「メンタルヘルス」の国際常識の最低ラインだ。WHOは、精神医療やメンタルヘルスに特に積極的に取り組んできた機関というわけではないのだが、「メンタルヘルスの問題は個人に宿る」「個人を治療したり隔離したりすれば、社会のメンタルヘルスの問題はなくなる」という考え方は、もはや全く見られなくなっている。

取り残された日本で起こり続ける悲劇

 日本にいるあなたにも、国際的な「世界観」の変化はもたらされる。しかし、あなたのもとに届く変化は、「日本」「時の政権」「地方自治体」「職場」「地域社会」「家庭」「メディア」などの多数のフィルターをくぐり抜け、変形されコマ切れにされた代物だ。具体的に「あなたのメンタルヘルスを増進し生活習慣病を予防するために、毎日定期的な運動をしてください。あなたのために、タバコ税ももっともっと上げて差し上げましょう。あなたが医療費をたくさん使って国家財政を圧迫すると困りますから、自己責任で、そうならないようにしてください」という形で降ってくる施策から、元の姿やコンセプトを想像することは難しい。そこに、新しい悲劇が積み重なっていく。

 日本には、2019年もなお25万人以上の精神科入院患者がいる。この人数は、全世界の精神科入院患者数の20%にあたる。1950年代以後、全世界の先進国では、精神科入院患者が激減したり、大規模精神科病院の設立自体が行われず地域精神保健福祉が推進されたりしてきた。ほぼ、日本だけが例外なのだ。

 閉鎖病棟を持つ精神科病院に、心ある精神科医や精神医療従事者がいないわけではない。長年にわたって日本の精神医療をリードしてきた精神科医の中井久夫氏は、1960年代後半、閉鎖病棟のドアを閉める時に音を立てないことを心がけていたという。服薬や身体拘束を含め、職権をもって患者に何かを強制する時、なるべく傷つけない強制の方法を工夫する精神医療従事者は、昔も今も、どこかに必ずいる。しかし現在、世界レベルでは、「社会のために、精神疾患や精神障害には隔離収容されて強制的に医療を受けていてもらわなくては」という考え方の正当性は、ほぼ完全に否定されている。

 隔離収容や強制が認められている中で方法の工夫に心を砕くことに、全く意義がないわけはない。そこに患者がいる以上、少しでも傷つきを減らすことは必要だろう。しかし現在、日本の取り組むべきことは、「アットホームな隔離収容」や「優しい強制医療」を洗練させることだろうか? 隔離収容や強制をなくすことこそ、緊急かつ重要性の高い課題ではないだろうか?

 第2回では、相模原障害者殺傷事件を通じて、日本の「メンタルヘルス」の現在を具体的に検証する。

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