相模原障害者殺傷事件以後、何が忘れられ続けているのか

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「健康への権利」という両刃の剣とその「発展的消滅」

 1946年、WHOが採択した世界健康機構憲章前文には、すべての人々にとっての基本的人権の一つが「差別されることなく、最高水準の健康に恵まれること」であること、それが「個人と国家の全面的な協力」によって実現されることが述べられている。ことメンタルヘルスに関しては、この文言は長年にわたって「クセモノ」でもあった。

 脚の不自由な人に杖や車椅子を使用させないことは、「平等」ではなく、単なる障害者差別だ。この例えにならうと、精神疾患や精神障害を持つ人にとっては、杖や車椅子と同様に医療や精神保健が必要なのであり、提供されなければ、その人が結果として差別され、人権を侵害されてしまうことになる。本人がそれらの必要性を認めないこともあるけれど、「個人と国家の全面的な協力」が求められている。本人が協力しないのであれば、国家の側から「協力」すればよい。その目的は、メンタルヘルスを含めて、本人が「最高水準の健康に恵まれること」である。本人の「健康への権利」を保障するためには、“上から目線“でパターナリスティックな押し付けや強制も、時には止むを得ない。……これは、メンタルヘルスに関する強制を正当化してきた論理の一つだ。

 しかし2019年現在、もはやWHOはそのような考え方に立脚していない。「実際のところは?」という疑念はなくもないのだが、今後、どのような動きが生まれようが、「隔離収容や強制を容認している」と言われても致し方なかった過去には、二度と戻れないだろう。なぜなら2006年に採択された国連障害者権利条約(日本は2014年に批准)が、障害者の他の者との平等を大原則としているからだ。障害を理由とした病院への隔離や施設への収容や何らかの強制は、それら自体が障害者差別であるから、全く認められていない。メンタルヘルスに関連する精神障害・精神疾患も、例外ではない。

 現在のWHOは、「メンタルヘルスの問題を抱えた、もしかするとアブナイ誰か」と、その他の人々や社会との対立構造を作ろうとはしていない。精神疾患や精神障害は、メンタルヘルスの幅広いスペクトラムの中に含まれる。だから、精神疾患の有無によって人をラベリングする必要はない。メンタルヘルスは、人と社会の健康の不可欠な一部だ。メンタルヘルスに問題がある人を社会から除外しても、社会は健康になれない。そもそもメンタルヘルスは、社会的・経済的・生物学的・環境的要因によって影響されるものだ。一人の個人によって左右されるものではない。強制入院を経験した誰かを「支援」の名のもとに監視しつづけたり、あるいは非合法薬物の使用を法で罰することによって回復を遠ざける上に刑務所コストを支払うことは、社会コストの面から見て、まったくワリに合わない。

 しかし、現在の日本のメンタルヘルス政策の数々から、WHOのこのような考え方の反映を読み取ることは、非常に困難だ。国連に加盟している日本は、国連機関の一つであるWHOの方針に対して、明確な異論反論を申し立てているわけではない。また、日本は障害者権利条約を2014年に批准しており、国内法整備などの条件もクリアしてきている。それなのに、日本で実現してきた政策施策の数々は、相模原障害者殺傷事件のその後に見るとおり、まったくチグハグなのだ。

政策や施策のありようを最後に決める「誰がどう実行しているのか」

 そうは言っても、精神科病院の「退院後支援」、特に警察も含めた措置入院後の「退院後支援」については、精神医療に関わる人々からの「相模原障害者殺傷事件の前から、ずっとやってきているんだけど?」という当惑の声もある。そうした人々の勤務先は、必要以上に入院を長期化させず、閉鎖病棟への入院や身体拘束は可能な限り短期間にとどめ、退院後は住まいで必要な支援を受けられるように、自治体や警察などの機関と積極的に連携する、良心的な精神科病院だ。もちろん、本人の意思を確認し本人の同意に基づくことは、基本中の基本である。

 退院後の生活に関して何も配慮されていない状態で、いきなり退院すると、その後の本人の生活は困難になるだろう。その困難さは、精神疾患を悪化させるかもしれない。だから、自治体の福祉部門などとの連携が必要なのだろう。それは理解できる。しかし、なぜ、警察とまで連携しなくてはならないのだろうか? その疑問を率直にぶつけてみると、「警察は、本人の様子がおかしいことに最初に気づいて連絡をくれることが多い」という答えが返ってきたりする。

 長年の経験に基づいて、患者が「必要なら、安心して受診できる」という実感を持っている時、おそらくその患者は、過去の受診で「いきなり、ありえない量の薬を処方され、飲んだら動けなくなって死にたくなった」という経験はしていないだろう。また「意に反して無理やり入院させられた」という経験や、その経験に基づく怨念も持っていないだろう。精神科病院への入院に対するイメージや記憶が「快適な環境で落ち着いて過ごすことができて、治療を受けられる」「治療効果が上がって入院を続ける必要がなくなったら、すぐ退院できる」というものであれば、入院を拒む必要性は減少するだろう。結果として措置入院ということになったとしても、入院するまでの成り行きや入院生活で決定的に傷つけられた記憶がなければ、どこか「しかたないかもなあ」と納得しつつの措置入院となり、短期間で退院しやすくなる。

現実と原則の対立を超えていく可能性はないのか

 しかし、以上のように書きながら、私の筆は重くなる。「精神医療従事者による、なるべく本人を傷つけない強制」であっても、強制は強制だ。「公権力だけど親しまれ信頼されている警察による目配り」であっても、公権力の介入であることに変わりはない。心がけや方法が、いかに本人自身にとって望ましいものであったとしても、日本が既に締結している国連の条約の数々、特に国連障害者権利条約に違反している可能性が高いことは否めない。心がけや方法が好ましいものであればあるほど、結果として、強制の撤廃から日本を遠ざけてしまうかもしれない。

 「退院後支援」について考えると、さらに筆が重くなる。強制力のない厚生労働省の「ガイドライン」だが、「一応は患者さん本人の同意のもと、精神科の入院患者さんは退院後もみんなで監視」という使い方に対する歯止めはない。しかし、患者本人が退院後に幸せな生活を送るための「追い風」として利用しようとしている地域もある。その「追い風」を活用できれば、数十年にわたって入院を続けざるを得なかった患者が安心して退院できる枠組みを作れるかもしれない。地域によっては、そのような検討が実際に進められている。しかし「退院や退院後支援を推進しているのは、精神医療や精神保健福祉を職業とする人々であり、患者自身と同じ立場にある仲間ではない」という批判は、容易に予想できる。

 日本で原理原則の対立が続いている現在も、政策や施策のさまざまな「既成事実」が積み重ねられている。チグハグさは否めない。大きな悲劇が起こるたびに、チグハグさは増大する。あくまで根本的な解決を求める人々もいる。チグハグのピースの一つを活用する努力を続ける人々もいる。誰もが、何もかも制約された中での選択や、せめてもの努力を積み重ねている。それらに対して、さらに「根本的な解決ではない」という批判が積み重なる。

 容易には動かない現実がある。影響力や権限の強さには、圧倒的な大小関係がある。影響力も権限も少ない人々は、制約の中で「せめてもの」主体性、エージェンシー理論の「エージェンシー」を発揮するのが精一杯だ。その構造の中に、こじれ続ける関係や事態がある。先行きは楽観できない。

 しかし人類には、「健康への権利」を、強制を正当化する「両刃の剣」という位置付けから解き放った実績がある。健康やメンタルヘルスという概念を拡大し、より幅広く包括的な幸福をもたらすものへと変化させることが、その実績を作ってきた。日本の現状に対して、将来の同様の展開をイメージすることはできないだろうか。

 ともあれ、メンタルヘルスが関係した数々の事件に光を当て続けよう。そして、表層的な外見からは思いもよらぬ骨格や構造の数々を、読者の皆さんと共に眺めたい。

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