ライフ

「私はフェミニストじゃない」なんてもう言わない。女らしさと愛に支配される女性たちへ

【この記事のキーワード】

「Getty Images」より

 日本の社会構造で、女性が「女性だから」という理由で不利益を被っていることを、「全然問題ないよね」と思っている女性は、どのくらいいるでしょうか。

 では「あなたはフェミニストですか?」と質問されて、「はい、フェミニストです」と答える女性は?

 私はずっと、「フェミニストだと思われたくない」と思っていました。子どもの頃にテレビで闘う田嶋陽子さんを見て、彼女の主張に同意を覚えていたのに、「田嶋陽子を好き」だと公言することもできませんでした。

「フェミニストとか名乗っても、いいことねーな」

 私が田嶋陽子さんを知ったのは中学生のときでした。研究者である田嶋陽子さんは当時、『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日系)などのバラエティ番組で活躍する売れっ子タレントでもありました。

 テレビの中の田嶋陽子さんは、「なんだかいつも怒っているヒステリックなオバサン」というイメージを押し付けられ、嘲笑されていたように思います。今振り返って考えてみると、骨の髄まで女性蔑視が染み付いている出演者たちの中で、ひとり女性の権利を訴えていた田嶋陽子さんが、「男性たちから嘲笑されるポジション」になるのは、必然でした。

 テレビの中の田嶋陽子さんのポジションは「美味しい」とは言い難く、視聴者の女性たちも「女性蔑視の男性たち」に迎合して彼女を嘲笑っていたのではないでしょうか。女性の権利を主張し、女性の自由のために発言している田嶋陽子さんを、彼女の語っている内容ではなくイメージだけで見て、「ああいうふうにはなりたくないよねー」と言う女性すらいました。

 中学生だった私は、「女性の権利を主張すると、こんなふうに攻撃されるのか」と思ったし、正直、「こりゃ、フェミニストとか名乗ってもいいことはひとつもねーな」とも思いました。

 一方で、私はたぶん中学生にしてすでにごりごりのフェミニストでした(フェミニストにはいろいろな定義があるかと思いますが、私はフェミニストという言葉を、「性別による差別があってはならないと思っている人」または「自分の中のミソジニーを自覚し、それと戦っている人」というふうに定義しています)。田嶋陽子さんの本も、読んでいたのです。

どうしてお母さんだけが家事をしているんだろう?

 法事で親戚が集まる際、男性陣は偉そうにビールを飲みつつテレビの野球中継を見ているのに、母を含む女性陣は甲斐甲斐しく料理の用意をしていました。その様を見て、「なんか変じゃね?」と怒っていた私が、「どうやら女性と男性では社会的に期待されている役割が違うらしい。女性蔑視なるものがあるらしい」ということを初めて知ったのは、実家の本棚にあった田嶋陽子さんの『もう、「女」はやってられない』を読んだことがきっかけでした。

 『もう、「女」はやってられない』は、文学や親子関係をフェミニズムの視点で評論した一冊で、私に初めて「フェミニズム」というものを教えてくれた本でもありました。

 フェミニズムを知る前は、すごく不思議だったんです。共働きなのに、なぜ母だけが家事を自分の仕事だと思い込んでいるんだろう、って。一時期、母の仕事が忙しくなったとき、毎晩お弁当の宅配サービスを頼んでいたことがありました。母は、「こういうのもたまにはいいよねえ」とおどけたように言っていましたが、その表情からは、ご飯を作れないことに対する罪悪感が明らかに見てとれました。

 両親ふたりとも働いているんだから、毎回お母さんがご飯作る必要なんてないのに。手料理か、既製品か、どっちがいいかと言われたら、正直どっちでもいい……中学生の私はそう思っていました。「母が申し訳なさそうにしていること」に、原因不明の苛立ちさえ感じていました。

 田嶋陽子さんの著書との出会いは、その苛立ちの原因を解明してくれる福音でした。私が「家事ができなくて申し訳なさそうにしている母」にモヤモヤしたのは、母にムカついているというより、「女性なら家事をするべきだよね! 男性は外で働いてさえいればOK」といった性別役割分業と、それに基づいた女性蔑視にムカついていたのだ、と理解できたのです。

 だから私にとって田嶋陽子さんは、フェミニズムとの出会いを提供してくれた人であると同時に、「フェミニストって名乗るのは損だよな」と思うきっかけになった人でもありました。

田嶋陽子さんを好きなのに、好きって言えなかった

 学生時代の私は、田嶋陽子さんの本に啓蒙されていたし、ファンだったのですが、「フェミニストだと思われたくない」という想いから、田嶋陽子さんが好きだとは公言することができませんでした。

 とはいえ、普段の会話から私が男女平等意識の高い人間だということは、ちょっと仲良くなった人には伝わっていました。「もしかして原宿ってフェミ?」と聞かれることもあり、そのたびに私は、「フェミニストっていうか、差別はよくないと思うし……」みたいな、なんとも歯切れの悪い回答をしていました。

 とくに男性からそんなふうなことを聞かれたとき、「やば。引かれる。隠さねば。500%モテないやん」と思っていたことを、ここに告白させていただきます。女性蔑視している人にモテたところで何もいいことがないというのに、当時は「引かれたくない」という気持ちが強かったのです。

 そんな調子でかつては「男女平等を主張しない女らしい日本女子」を装いがちだったのですが、ここ数年はライターとして、フェミニズムやジェンダーについて積極的に記事を書くようになりました。私がそうできるようになったのは、#me too運動の高まりや、SNSの普及によって、「あ、私と同じような憤りを抱いている人がこんなにもいたんだ」と思えたからです。

 加えて、「男性が上で女性が下。男性が主で女性が従。結婚したら家事育児は女性の責任」という考えを内面化している男女が多いことにやるせなさを感じることも増えました。アラサーになり、年齢的に結婚や出産をする友達が増えたことで、女性の中にも女性蔑視的な価値観を内面化している人が多いと気づいたのです。家事育児を全面的に自分の責任だと感じ、かつての母と同じ状態に陥って苦しんでいる友人たちは多くいます。

 現状、男性を立て、サポートすることが女性の役割だと思ったり、男性より無知なふりや力がないふりをしたりする女性はたくさんいます。私も、たまに、しちゃうのです。なぜ、そうしちゃうのかというと、無意識に「女らしさ」とはそういうものだ、と思っているからなのでしょう。

 女性って、「女らしくしよう」とすればするほど奴隷っぽくなってしまう気がする。そんな風に最近よく思います。

 奴隷ってかなり強いワードなので、「いや、そんなことないやろ! 女らしくすることにもメリットはあるはず」と思われる方も多いかもしれません。でも、本当にそうでしょうか? 「女らしい」という言葉が女性に向けて発せられた場合、一般的には褒め言葉と捉えられますが、褒められた当人はその「女らしさ」ゆえに結果的には損な役回りを担うことが多いんじゃないか、と思うのです。

「女らしさ」とは、自分を小さくみせること

『愛という名の支配』新潮社

 田嶋陽子さんは著作『愛という名の支配』で、この「女らしさ」の欺瞞を痛快にぶった斬っています。

 「女らしさ」の代表的なイメージは、ひかえめ、従順、愛嬌がある、おとなしい、素直、気配りができる、といったものでしょう。一方、「男らしさ」のイメージは、リーダーシップがある、野心がある、行動力がある、大胆、責任感がある、というもの。

 つまり、男性が主で、女性が従、それがあるべき姿である、というのが、「男らしさ・女らしさ」のイデオロギー(社会的・政治的な見方)なのです。

 女らしさは、自立やパワーとは対極にあるイメージですよね。「女らしくしろ」とは、しばしば「黙ってろ」「でしゃばるな」の単なる言い換えだったりもします。

 田嶋陽子さんは、「女らしさ」についてこうも表現しています。<女らしくするということは、ハイ、ハイって人の言うことを素直にきいて、よく気がついて、自分のことは謙遜して、あれも知らないこれも不得意だと言いつのり、相手を立て、できるだけ自己主張をしないで、言ってみれば、自分を小さく小さく見せることだ>と。

 素直に男性のことを聞いて、従って、相手を立てて、自己主張は決してしない、家事育児は無償で喜んでする……って、奴隷か! って話なのですが、奴隷とは違う点がひとつだけあります。それは、そこには「愛」がある、という点です。

 男性を立てたるのはなんのため? 家事・育児を無償で行うのはなぜ? という疑問を抱かせないために、すごく便利な言葉が「愛」であり、「女らしさ」なのだということでしょう。

 『愛という名の支配』は、「愛」や「女らしさ」が、いかに巧妙に女性の力を奪う機能を果たしてきたか、差別の目くらましになっているかを、明快な筆致で描き出しています。

 構造的な男女差別をこれでもかと突きつけてくる本でもあるので、読んでいて怒りが湧いたり辛くなったりもするかもしれません。でも、すべての女性に読んでほしい、と私は思います。

 だって私たちは、「愛」も「女らしさ」も、「いいもの」だと、「女性なら誰もが求めるべき」だと、教えられてきましたよね?

 けれどその教えに従った先に得られるのは、ピンクカラーと呼ばれる低賃金の仕事や、パートをしながらのワンオペ育児、経済力がないためにモラハラに耐えなければならい結婚生活……かもしれないのです。

 『愛という名の支配』は、女らしさ規範に従うことのリスクを、愛のトラップに引っかからないために私たちに何ができるのかを、明快に教えてくれます。

私はフェミニストです。あなたもそうではないですか?

 私は現在、「あなたはフェミニストですか?」と聞かれとき、「はい。そうです」と答えられるようになりました。

 フェミニストという言葉を「男ぎらい」「女の特別扱いを求めている」などと誤解しているひとも多いので、未だに言い切ることに一抹の不安はあったりはします。でも今は、「私はフェミニスト」と堂々と名乗りたいと思うようになりました。もう「フェミニストを名乗るのは損」だとか「フェミニストを名乗ることで嫌われたくない」と思う気持ちは薄れ、「私が発信していかなければ」という気持ちが大きくなってきたからです。

 「愛」や「女らしさ」に絡め取られて、理不尽な状況を耐えている女性たちがいるならば(そして「愛」や「男らしさ」に囚われて理不尽に耐える男性も)、女性の中に内面化された性の固定観念を取り去っていくしかないんじゃないか。そのために声を上げるのがフェミニストなのだと思います。理不尽を「仕方のないこと」と受け止めるのは、もうごめんです。あなたもそうではないですか?

 女性の権利について声高に語る女性は、「女らしくない」とカテゴライズされるでしょう。いいですね。私にとって、「女らしくない」は、ただの褒め言葉です。

 いちライターである私が、今こうしてフェミニストであると名乗れるようになったのも、今よりもずっと女性蔑視が激しかった時代に、嫌われ役を買ってでもフェミニズムを広めるために戦ってくれた、超絶かっこいい女性がいたからなのだと今ならわかります。田嶋陽子先生、ずっと前からファンでした。これからも、好きです。

「いいね!」「フォロー」をクリックすると、SNSのタイムラインで最新記事が確認できます。