「外国人が話す訛った日本語」はジョークの対象か?

文=堂本かおる
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ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア(イタリア訛り)

 『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』(1999-2007)は、ケーブルTV局HBOの大ヒット・ドラマだ。ニューヨーク州の隣に位置するニュージャージー州のイタリア系マフィアの話である。

 昔のマフィアと異なり、マフィアといえども現代社会に生き、家族問題で悩み、セラピストにかかるなど、人間性を前面に押し出したユニークな描写で爆発的な人気を得た作品で、今もファンの心に強く残っている。

 その一方、マフィア・メンバーの話すイタリア語訛りの英語も含め、「イタリア系アメリカ人のステレオタイプ」として批判もされた。

 最も特徴的で、一種の流行語にもなったのが「fuhgeddaboudit」というフレーズだ。これは「Forget about it.(そんなコトはどうでもいい)」を、イタリア語訛りの発音どおりに綴ったものだ。

トレヴァー・ノア(アフリカン・アメリカン訛り)

 深夜トーク・ショーの司会者、トレヴァー・ノアは南アフリカ共和国出身のコメディアンだ。

 英語を第一言語として育っているが、両親の人種・国籍・母語が違うこと、南アが多民族国家であることから複数言語を操る。かつ、他言語の特徴を耳で拾い、その言語を話せなくとも音マネできる稀有な才能を持つ。

 ノアがアメリカで一気に人気を得たのは、アメリカ黒人特有の英語を見事にマネて見せたからだ。

 ノアも黒人だが、南アの英語の訛りとヴォキャブラリーを持つ。

 そのノアが「アフリカン・アメリカンに憧れて話し方や立ち居振る舞いを練習した」というネタでスタンダップを行った。アメリカでの公演の際、マネをされた側のアフリカン・アメリカンの観客が大爆笑し、拍手喝采したのだった。

マジョリティとマイノリティの関係

 大人になってから習得した言語の訛りは無くならない。努力をすれば薄くはなるが、ネイティヴ話者と同じ発音になることは、まずないと言っていいだろう。

 アメリカ生まれの二世であっても、大きなエスニック・コミュニティの中で育っていれば親や周囲の訛りを受け継いでしまうことがある。最初に染み込んだ言葉の影響は、それほど強い。

 このように本人の努力ではどうにもならない部分を他者がマネてからかうのは言語道断である。

 だが、最初に書いたように言葉はその訛りも含めて本人のアイデンティティと成り得、他者からはその人を特徴付けるものとなる。

 『ザ・ソプラノズ』の放映当時、学校や職場で周囲から「fuhgeddaboudit」を言われ、鬱陶しい思いをしたイタリア系アメリカ人は少なくないと思われる。

 私が日本語訛りの英語をマネされ、からかわれたらと思うとゾッとする。どれほど肩身が狭く、身の置き所のなさを感じることだろうか。

 ただし、そこには多少の違いがある。

 全米における人口を見ると日系人は少数派、イタリア系はかなりのマジョリティだ。特に『ザ・ソプラノズ』の舞台となっているニュージャージー州ではイタリア系25%とする統計もある。圧倒的多数派と少数派では、他者から笑い者にされた際のダメージの度合いが異なるのだ。

 架空の人物の集合体である『ザ・ソプラノズ』と違い、メラニア・トランプは実在する個人、しかも全米規模では極少数派のスロベニア系だ。

 メラニアが『サタデーナイトライブ』での自身のパロディを観ているとすれば、さぞかし傷付き、嫌な思いをしていることと思う。私はメラニアのファンではないが、そこは気の毒に思う。しかし、メラニアは大統領の妻という公人であり、政治パロディの対象となるのは致し方がないのである。

 南ア人のトレヴァー・ノアにモノマネをされたアメリカ黒人が嫌がるどころか、大爆笑したのは、第一にはノアの類いまれな才能ゆえだ。

 ヘタなモノマネほどイラつくものはないが、ノアのモノマネのレベルの高さは舌を巻くしかない。かつ、そこには「アメリカ人」が「アフリカ人」に対して持つ優越感も関わっていたはずだ。

 アメリカ進出当時の、まだ全米規模での知名度のなかったノアは、アメリカ黒人には「え?アフリカ人のコメディアン?珍しいね」という感じだった。それが見事に自分たちの形態模写をしたものだから、「こいつ、やるじゃん!」となった。

 仮にノアと同じレベルの才能を持つ白人コメディアンがいたとしても、ノアと同じことをすれば速攻でコメディ界から追放の憂き目にあうはずだ。

言葉はパロディの対象

 複数の例をみていくと、マジョリティがマイノリティの訛りをマネするのは問答無用のタブーなのだが、マイノリティが上位にいる者をマネるのは有りという図式が浮かび上がってくる。

 日本は日本語ネイティヴ話者が数の上でも、社会的な立場においても圧倒的な優位を誇っている。ゆえに極度なマイノリティである外国人の言葉の訛りをマネてはいけないのである。それは虐め以外の何者でもない。

 ……が、もちろん例外も出てくる。例えば、日産/三菱の元会長カルロス・ゴーンは、かつては日本語での演説を行っていた。かなり努力して学んだ様子だが、当然、強い訛りがあった。当時は日本を代表する公人の一人であり、彼の日本語学習の努力を認めた上でなら、健全なパロディの対象になり得たことと思う。

 しかし、もしゴーンのモノマネが人気番組などで成されたとすれば、ゴーンと同じブラジル系の子供たちは学校でからかわれ、辛い思いをしただろうか。もしくは「ブラジル人の日本語はからかっていい」とする風潮が生まれただろうか。

 なかなか答えの出ない問いだ。だが、言葉は訛りも含めて文化であること。文化はおしなべてパロディの対象となり得ることは確たる事実なのである。
(堂本かおる)

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