政府の経済対策に、教育現場における1人あたり1台のパソコン整備が盛り込まれた。
日本は教育現場におけるパソコン普及率が先進国の中では突出して低いという特徴があるが、これは学校に限った話ではなく、実は社会全体でも同じである。
パソコンに代表されるようなITツールはまず触ってみることが重要であり、ITスキルが高い人ほど、配ることを最優先した方がよいと考える傾向が強いが、正反対の意見もある。
教員がしっかりIT教育をできる体制ができないうちにパソコンを配ってしまうことには弊害も多いという。教育現場におけるパソコンの配布についてどう考えればよいのだろうか。
教育現場におけるパソコン活用は世界最低ランク
安倍首相は2019年11月13日に行われた経済財政諮問会議において、「パソコンが1人当たり1台となることが当然だということを、国家意思として明確に示すことが重要」と発言。1人あたり1台のパソコン整備に取り組む姿勢を明らかにした。
その後、政府が打ち出した経済対策にもパソコン整備が盛り込まれ、具体的な施策として動き出した。
政府はこれまで2022年度をメドに、児童生徒3人に対して1台のパソコン整備を目指してきたが、進捗は遅く、今のところ平均で5〜6人に1台しかパソコンがない。
日本における子どものパソコン保有率は先進諸外国と比較すると著しく低く、2013年の調査では約3割程度にとどまっているほか、16歳〜24歳の若者が職場や家庭でパソコンを利用する頻度も、OECD加盟国の中で最低水準となっている。
また、Webサイトを使った児童生徒への連絡や教材のダウンロードを実施している割合も、日本は最低水準という結果が得られている。
パソコンはなくてもスマホがあるので問題ないという意見もあるが、それはあてはまらない。日本の子どもはパソコンだけでなく、スマホの保有率も低く、IT全般に対して前向きではないのだ。
一方、諸外国では、スマホとパソコンの両方を保有し、他人とのコミュニケーションはスマホ、知的活動はパソコンと使い分けるのが当たり前となっている。
子どものIT普及率が低いのは、日本社会全体においてITが普及してないからである。
社会全体のパソコン保有率を調べた統計データというものは存在していないのだが、パソコンの出荷台数や買い替え頻度などからパソコン保有率を計算すると、日本は米国の約半分しかない。
先進各国ではどんな小さな会社でも一通りのIT化が行われており、ドキュメントをクラウドでやり取りするのは当たり前だが、日本の場合、パソコンを使っていない零細企業はいくらでもある。
今年10月の消費増税で軽減税率が導入されたが、この制度については消費税発足当初から導入が検討されていた。だが日本の場合、IT化されていない企業が多く、商品によって税率が異なると事務負担が大きくなるため、導入が見送られてきたという経緯がある。
学校におけるパソコン活用率の低さは、社会全体のIT活用率の低さを反映したものといってよいだろう。
パソコンを配るだけではダメ?
近年、国民のITスキルが低いことが、日本の競争力低下の要因のひとつになっているとの認識が広がっており、学校におけるIT教育の重要性も議論されるようになってきた。今回の施策もこうした状況を反映したものといってよい。
パソコンを配布する予算は大した金額ではないため、その気になれば、すぐにでも実施できる政策だが、現実は簡単ではない。児童・生徒にITを教育できる人材整備を整えないうちにパソコンを配ることに慎重な意見が出ているからである。
安倍首相の発言を受けて西村経済再生担当大臣は、経済対策に必要な措置を盛り込むとの考えを示したものの、「配るだけでは活用が進まない」として、外部人材を含めた教員の確保も検討すると述べている。
確かにただパソコンを配るだけでは不十分というのはその通りだが、時間は待ってくれないというのもまた事実である。
教育現場は、IT化が進んでいない日本社会の中でも、さらにIT化が遅れている分野であり、IT教育を行う人材を確保し、その体制を構築するにはかなりの時間がかかる。教育体制を確立するまでパソコンの配布を待っていては、その間、児童・生徒はパソコンに触れることができない。
日本は詰め込み型の暗記教育に慣れてしまっているせいか、物事は権威のある人から教わるべきものという感覚が根強い。だがITというのは、自身が触れることで、使い方についても自分自身で考えていくという性質があり、詰め込み型の教育にはあまり馴染まない。
ITを活用した教育に早くから取り組んできた慶応大学SFC(湘南藤沢キャンパス)の研究室では、市販品を使うことができる場合であっても、とにかく自身の手でサーバーを立ち上げて管理することが推奨されている。あくまで一般論だが、ITスキルが高い人ほど、触って覚えた方がよいと考える傾向が顕著だ。
形而上学的な思考は、形而下の作業で養われる
この話は、近年話題のプログラミング教育についても同じことがいえる。
2020年度から小学校でプログラミング教育が必修化されることになっており、新しい教科書にはプログラミングの項目が盛り込まれた。もっともプログラミングが必修化されるといっても、プログラミングという科目が加わるのではなく、算数や理科の中でプログラミングが取り上げられる形になる。
つまりプログラミング教育の目標は、職業訓練的な意味で単にプログラムが書けるようになることではなく、論理性や抽象化など、ITに関する基本的な素養を身につけることにある。したがって、ただプログラムができればよいという話ではない。
しかしながら、プログラミングやパソコンの操作という形而下の作業に自発的に取り組むことで、それが結果的に形而上学的な思考のトレーニングになるという面が大きいことも否定できない。
実際にプログラムができる人なら、この感覚は直感的に理解できると思うが、まさに習うより慣れろという言葉がこれほどあてはまる分野もないというのが現実なのである。
少なくともパソコンさえ与えておけば、プログラミングに興味を持つ子どもは、教師が何も言わなくても勝手に取り組んでいくはずであり、それだけでも大きな効果が得られるだろう。
そこまでの興味はない児童・生徒であっても、日常的にパソコンに接していれば、ある程度までなら、ITに関する基本的な素養が身につくのは間違いない。
この施策は教員の準備を待たずに配布を優先させたほうが、大きな成果が得られる可能性が高い。また、1人1台といっても、面倒な手続きをしないとパソコンに触れない、一定時間以外は操作できないといった制約は設けないほうがよい。
繰り返しになるが、日常的にパソコンに触れて、作業を繰り返す中で、抽象的、論理的な思考回路も同時に養成されていく。制約を設けないことが、この施策を成功させるカギであると筆者は考える。