連載

なぜ「虐待親」を安心して責められるのか 「家族」と「法的責任能力」という罠

【この記事のキーワード】

「仕方なさ」の存在を認めると、「責任」観が変わる

 子ども自身にとって、親が住まいの中で行う虐待は、天災のようなものだ。自分の力では、予防も回避もできない。逃げることはできるかもしれないが、どこまで逃げれば安全になれるのか想像もつかない。天災との違いは、同等の他の被災者がいないこと、そして目撃者がおらず信頼できる記録もないことである。

 子どもには、罵声や暴力や空腹を受け止めることしかできない。その親自身も、別の選択肢を思いつかないのかもしれない。選択肢があっても、実質的に選べないのかもしれない。

 虐待が止まらない親は、少なくとも、自力で状況から脱却することができなくなっている。親の責任を求められても果たせないのだから、虐待してしまうのは「仕方ない」、子どもが虐待されることも「仕方ない」……。認めたくない現実だが、いったん、この現実を認めてみよう。

 すると、単純な処方箋が見つかる。「責任を果たすための支援を親に提供する」というものだ。責任ある親になるための支援が提供されれば、親は「責任ある親」になれる。ある親は、子どもを虐待せずに養育できる親になるかもしれない。別の親は「やはり無理」と気付き、信頼できる人や組織に子どもを託すとことで、親としての責任を果たすかもしれない。いずれにしても、子どもは虐待から解放され、トラウマを癒やしながら成長することができる。

 夢物語に見えるだろうか? 実は2014年、日本はその土台を整えている。

日本にもたらされているはずの「社会モデル」のパワー

 2014年1月、日本政府は国連障害者権利条約を締結した。障害者と他の者の平等を目的とするこの条約には、数々の重要なポイントが含まれているのだが、最も重要な内容は障害の「社会モデル」化であろう。

 障害は、治療されて消滅されるべきものではない。障害者本人のリハビリテーションなどの努力によって克服されるものでもない。障害者が「障害ゆえに難しい」と感じるとき、社会に障害がある。なくすべき障害は、社会にある障害だ。これが「社会モデル」の基本的な考え方だ。

 たとえば、知的障害によって文書の内容が理解できず議論に参加できないのであれば、理解や参加を助ける手段や人があれば良い。その時、知的障害者を取り巻く社会の障害は、知的障害による「障害」をもたらさなくなる。国連障害者権利委員会の委員には、そのような支援のもとで参加して成果を挙げている知的障害当事者が、実際にいる。

 障害者と他の者の平等を実現するために、社会はこのような状況を提供しなくてはならない。障害者権利条約を締結するということは、締結国から世界への「やります」という宣言だ。そして2014年、日本はこの条約を締結した。

 障害を、日本の障害者手帳制度で公認されるものに限定する必要はない。たとえば子どもを虐待する親には、たいてい「つい、子どもを叩いてしまう」という自覚がある。「こんなことをしてはいけない」とも思っている。しかし、思いと裏腹に激しく子どもを叩き、結果として、世間から隠さなくてはならなくなる。それだけなら、精神障害者保健福祉手帳の対象にはならない。しかし、人間であり親であることに関して困難に直面しており、自力では乗り切れなくなっていることは間違いない。

この親は、「虐待しない親」という意味で他の親と平等になるための支援を求めてはならないのだろうか? もはや支援を求める力も残っていないとき、気づいて支援の手を差し伸べるのが社会の役割であってはならないのだろうか? 親が「助けて」と声をあげることができ、実際に助けられる社会は、むしろ日本の目指すべき姿であろう。

改めて「法的責任能力」を問い直す時が来た

 国連障害者権利条約は、障害者を含めて、すべての成人に完全な責任能力があるとしている。この考え方が日本の法律の中で完全に実現されれば、減刑にあたって法的責任能力が争点となることはなくなる。このことは、「心身耗弱」「心身喪失」を理由とした減刑がなくなることを意味する。

 すべての成人に完全な責任能力がある以上、責任能力の欠如を理由とした成年後見制度は、あってはならない。もちろん、すべての成人が完全な責任能力を発揮するためには、各人の事情に適した支援が必要だ。そして、この条約を締結した政府が、そのような支援の提供を拒むことはできない。

 このことを念頭において、2019年11月に死刑が求刑された、新潟小2女児殺害事件の公判を振り返ってみよう。

 ネット世論が問題視したのは、女児があまりにも悲惨な殺され方をしたにもかかわらず、死刑から無期懲役への減刑が行われたことだった。とはいえ、被告には最良の弁護を受ける権利がある。弁護側は、被告の解離性障害・抑うつ障害などを理由として責任能力が阻害されていたとし、減刑を求めた。被告側弁護士の役割は、被告にとって最良の弁護を行うことである。妥当かつ“使える”素材があれば使うのみだろう。そして、しばしば、“使える”素材は法的責任能力しか残されていない。

 最良の成り行きは、この事件そのものが起こらなかったことであろう。被告は、いわゆる「ロリコン」であり、過去にも女児に対するわいせつ行為などの前科が複数あったと報道されている。「ロリコン」といえども、対象が絵や動画やフィギュアの女児で、自分や同好の士だけで楽しんでいるのであれば。個人の自由だ。

 しかし、人間の生身の女児を対象とした「ロリコン」の場合、「その女児が被害者となる」という決定的な違いがある。過去に被告が事件を繰り返していた際、あくまでも「本人の人権を保障する」という観点から「もしもあなたが希望するなら、支援を受けるという選択肢もある」という情報が提示され、実際に選択できる可能性があれば、成り行きは大きく変わったかもしれない。

 それでも、起きる時には不幸な事件が起こってしまう、その時、すべての人が事実として完全な責任能力を発揮できる状況なら、責任能力を理由とした減刑はなくなる。

 ともあれ2020年、日本の私たちは、2014年から6年後の日本を生きることになる。そこには、2013年以前の日本との連続性があり、日本的な「家族」「責任能力」の風味が色濃く残っている。しかし日本の土台は、2014年、国連障害者権利条約によって劇的に変化した。

 私たちには、土台にふさわしい「家族」観や「責任」概念を持つべき時が来ている。メンタルヘルスも例外ではない。

1 2

あなたにオススメ

「なぜ「虐待親」を安心して責められるのか 「家族」と「法的責任能力」という罠」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。