
人生はミスコンじゃねぇんだよ
女は見た目がそこそこ良くないと、意見すら聞いてもらえない。
先日、とあるネット番組を観ていてそう思った。
その番組は視聴者がコメントを書き込むことができる仕様になっていて、少しふくよかな専門家の女性が語りだすと、コメント欄は彼女の容姿を罵る言葉で埋め尽くされた。悪意に満ちていて、とても見ていられなかった。
女性は顔、男性は身長で評価が異なってくる
こういう事案はくそほどある。
Twitterで女性に対して「ブスなのにどうして顔出ししているんですか?」というクソリプを投げつけている輩がいたり、会社の飲み会で「あの子、仕事はできるけどブスだよね」といらん蛇足がついたり。
このように、身体的な魅力を善、身体的な魅力を持たないことを悪と決めつけ、後者に差別的な言動をとることを「ルッキズム」と呼ぶ。
ルッキズムは世にはびこるステレオタイプのひとつで、フェミニズム(性差別からの解放)のなかで語られるテーマのひとつでもある。
「あ~あ、可愛いという感情すら抱いちゃいけないの? 息苦しい世の中だ」という声が今にも聞こえてきそうだが、そういうことじゃない。
個人的な美醜の感覚は誰もが持っていて、多くの人は美しいものを愛でたい。問題なのは、容姿によって機会や可能性が奪われてしまうこと。たとえば、身体的魅力の有無によって雇用機会に非対称性が生まれること。
そしてこのルッキズムにより影響を受けるのは、女性だけではない。
女性は容姿のなかでも顔の造形が注目されがちだが、男性はというと、身長によって評価が異なってくる。
女たちの恋バナを聞いていると、「○○君は素敵なんだけど、ちょっと背が低いんだよね……」は頻出フレーズだ。身長の高低は、男性を魅力付けする際の要素のひとつなのだ。
もちろん恋愛は自由なので、どんな相手を選ぶかも自由。しかしこれが人事評価に影響されるとなると問題だ。
実際にアメリカでは、身長の高い男性のほうが信頼されやすく、年収が高いという研究結果がある。高身長主義による差別は「ハイティズム」と呼ばれる。
こうしたルッキズムやハイティズムは「美的感覚」という主観に基づいているので、明るみに出づらく、解決が難しい。
同じスキルを持つAさんとBさんのうち、身体的な魅力のあるAさんのほうが昇進したとしても、恣意的な判断はいくらでも正当化できてしまうから。その判断をした張本人も、自身の恣意性に気付いておらず「本当に実力で判断したのに、いちゃもんをつけやがって」と逆切れするケースもよくあるのでは。
誰もがステレオタイプの中に生き、偏見を持っている
フェミニズムについて学ぶことは、自分がどんなステレオタイプの中に生きていて、どんなバイアスを持っていて、どんな差別的な行動を起こしうるかを認識することだ。
フェミニズムは女性優遇運動と誤解されがちだが、正しくは「性差別からの解放」。
男性にも女性にもメリットがある概念なのに、言葉が持つイメージにひっぱられているのか、堂々と「アンチフェミ」を名乗る人もいる。自分も男性であることで性差別の被害を被っているかもしれないのに、「それでいいのね?」と不思議に思う。男性ばかりが責任を押し付けられ、デートでもリードしなければならない役割に息苦しさを覚えるなら、あなたもフェミニストだ。
よく問題となるステレオタイプというものは、いわば「脳の省エネモード」で誰もが持っている機能といえる。
情報が爆発する社会のなかで、情報をパターン化して効率的に処理するために、あらかじめ備わっている一種のサバイバル術だ。日本語では、「先入観」「思い込み」「固定観念」などと訳される。
ステレオタイプの負の要素とは、バイアス(偏見)が生まれることだ。そしてバイアスは、誰かの意見を無効化しようとするときにたびたび用いられる。
年齢によるバイアスがある状態では「あの人は年寄りだから」とか「まだガキだから」というフィルターにより意見を無効化しようとし、ジェンダーによるバイアスがある状態では「女は感情的だから」「男は暴力的だから」などと言い、無効化しようとする。ルッキズムについては、誰かの外見に魅力がないことをあげつらうことで、意見を無効化しようとする。
繰り返しになるが、誰もがステレオタイプの中に生きているし、バイアスを持っていて当たり前。大切なのはそれを認識し、是正していこうとすること。そうした姿勢を「知性」と呼ぶのだと思う。
ひとたび自分のなかにある偏見に気が付くと、他の属性へも考えを巡らせることができるようになる。
フェミニズムに賛同する人にアライ(LGBTqに対して支援の立場をとる人)が多かったり、ソーシャルマイノリティへの関心があったりするのも、あり方を問うことで「自己と他者の違いを認め、想像力を働かせる」技術を学ぶからだ。
形式的平等と実質的平等。「equality」と「equity」
フェミニズムを考える上で、「平等」を定義しておく必要がある。平等には「形式的平等」と「実質的平等」の二つの捉え方がある。
形式的平等とは消費税のようなもの。1万円の品には、誰が買っても1000円の消費税がつく。
けれども、買い手に収入格差があったらどうだろう。
月収が20万円の人にとっての1000円と、月収が200万円の人にとっての1000円では、同じ金額でも重みが違ってくる。そこで、稼いだ金額によって税率が変わる累進課税が登場する。
累進課税方式の所得税では、稼いだ人ほど税金も高くなる。その人にとっての「重み」に目を向ける、こちらのほうは実質的平等に近い。
英語では「equality(平等)」と「equity(公正)」という表現の違いがあるが、平等のほうには「同一」というニュアンスがあり、公正には「フェア」というニュアンスがある。
ここでジェンダーに話を戻すと、「女性専用車両があるなら男性専用車両も」だとか「生理休暇は女性優遇措置だ」と主張している人たちは、形式的平等に目を向けていることに気付く。
その措置の背景には、前提となる違いがある。女性専用車両は、同じ女性のほうが痴漢の被害に遭いやすいというマイナスを考慮しての取り組みだし、生理休暇は身体的な負担という避けられない打撃を考慮しての制度だ。マイナスをゼロにしているだけだと言える。
たとえば、難病で医療費が高額になる人が国から助成を受けられたり、障害があり雇用されづらい人のために障害者採用があったりするのも実質的平等のためのものだが、それらに異を唱える人は少ないだろう。難病や障害によって、生活に支障が出ることは想像できるから。
であれば、女性専用車両や生理休暇も実質的平等のための取り組みであることが理解できるのでは?
そもそもの歪みに目を向けてみること。
ちなみに、男性が女性と同じ権利を持つために変わってきた領域もある。「保育士」という職業はかつて「保母」と呼ばれ、1977年までは女性限定の仕事だった。77年に男性が保育者になることが認められ、男性保育者は「保父」と呼ばれるようになった。それが99年に性別を特定しない「保育士」という名称に変わっている。
今、男性の育休が注目されているのも、育児のなかで父親という役割が軽んじられてきたことに対する揺り戻しなのだろう。
性別のほかにも、人種、国籍、宗教、社会的身分など、世の中には色々な分断がある。どの違いに対しても、基本姿勢は「自己と他者の違いを認め、想像力を働かせる」こと。言うのは簡単でもやるのは大変。でも、言わなきゃ始まらないからね。