「MISIA、かっけー!」だけでいいのか 紅白に突如現れたレインボーに感じた興奮と戸惑い

【この記事のキーワード】
「MISIA、かっけー!」だけでいいのか 紅白に突如現れたレインボーに感じた興奮と戸惑いの画像1

MISIAオフィシャルぺージより

 2019年の紅白歌合戦、私はその日仕事で朝まで帰らず、すべて終わってスマホ片手にベッドでまどろんでいるときにMISIAのことを知った。

 画面に映っていたのは、ギラギラと光るレインボーフラッグと、これまたギラギラときらめく衣装のドラァグクイーンたち、そしてゲイカルチャーで生まれたハウスというジャンルのアレンジで、これでもかというくらいに「あなたがすべて」と張り上げるMISIAだった。

 え、やば、すごいじゃん。何これ。え、しかもドラァグクイーンってマーガレットさんもいるの? やば。かっこよ。ほかの出演者にもレインボーフラッグ振らせてんじゃん、おもしろ。星野源とPerfumeはノリノリで、ISSA目が死んでる(笑)。 MISIAめっちゃ声裏返るじゃん、どした。力入ってんなー。

 現実感がなかった。単純に嬉しいとかウザいとかのべっとりした感情じゃなくて、「やるじゃん」って。紅白の場にこれを存在させたなんて、やるじゃんって。

 別に紅白が好きなわけじゃない。でもやっぱ紅白は大舞台だと思うし、性別二元論によるチーム分けも萎えるけど、紅組とか白組とか気にしてる人なんてこれまで誰も周囲にいなかった。今年流行った曲がたくさん聞けて、共通の話題になりやすいってのが、少なくとも私の世代にとっての「紅白」だと思う。

 そんな、「みんな見てる」紅白で、MISIAのこれはやばいて。

 「あんたもこんなふうに、悩める若者みたいな顔をせずとも、ニカっと笑ってドカーンて弾ける姿でお茶の間に入り込んでいいんよ」って言われた気がして、そんなことをやっちゃったMISIA、やるじゃんって。何年もかけて少しずつとかでもなく、しみったれた説教もせず、ただバーンってドカーンってフーってイエーイって突然やっちゃうの、すごいじゃーん。

 寝る前に、ツイッターにこんなふうに感想を書いた。

Came home from work to find that MISIA was in Kohaku (an NHK end-of-the-year music program) with drag queens and rainbow flags all over the place. I could shout “capitalism” but that can wait. Let me spend the night feeling validated for a moment.(仕事から帰ってきて、MISIAがドラァグクイーンたちとレインボーフラッグだらけのステージを紅白でやったのを知った。「資本主義だ」と叫ぶことはできるけど、それはあとでもいいやね。今夜はとりあえず、一瞬だけでも肯定されたような気持ちで寝かせて。)

レインボーフラッグが「奪われた」?

 眠りから覚めて、TwitterでMISIAと検索すると、MISIAを絶賛する声や、勇気づけられたという声がたくさんあった。

 一方私のタイムラインでは、レインボーフラッグが大手メディアによって奪われたと感じる人の声が上がっていた。今回の紅白はオリンピックや新元号など国家的なテーマがたくさん散りばめられていて、その流れの中でレインボーが使われることに、「多様性」の名のもとに取り込まれる危険性が感じられる、といった話だったように思う。

 その指摘は至極まっとうなものだし、資本主義にレインボーや「多様性」が取り込まれる問題と並んで、現代のLGBTQ+運動に携わる者であれば当然頭の片隅によぎらなければならない問題だ。

 だから、それに対して「MISIAは昔からいろいろLGBTのことに関わってきたのに批判するなんて」とか、「当事者もたくさん関わってるの知らないのか」とか、「クィアカルチャー/ゲイカルチャーについてろくに知らないくせに」とか、「市井の当事者の生きる現場にうとい研究者の的はずれな批判だ」とかいろいろ批判されているけど、そういう話ではないのになあと困惑してしまう。そのひとつひとつには、きちんと突っ込みを入れている人たちがいるので私は何も言わないけれど。

 でも、「奪われた」って感覚は微妙に共感できなくて、モヤっとしてしまった。

レインボーとの距離感

 そもそも、レインボーフラッグが私のものだったことなんてあっただろうか。

 幸運なことに私は、既にプライドパレードやレインボーフラッグがある時代に生まれた。自ら作り上げることなく、参加するパレードはあったし、手に持って振り回すレインボーフラッグも、腕に巻き付けるレインボーバンドもあった。そして、そんな恵まれた環境において私は、いつも不満だらけだった。

 プライドパレードに男女別のトイレしかなかったこと、トランスジェンダー当事者を歓迎しなかったLGBTサークル、イベントでドラァグを禁止したLGBTスペース、ゲイ男性のことばかり前に出していたLGBTイベント、私のアイデンティティを勝手に「ゲイ」と書いたゲイ・ジャーナリスト、途中参加や一時的離脱を認めず全ルート歩ききれる身体を前提としたパレード、「政治的プラカード」は禁止と言って多様な当事者の声に圧力をかけたパレード、警察とタッグを組んで一部のグループを隊列から排除したパレード、レインボー色ののぼり旗に書かれた「ホモフォビアは社会の病気」という病理化の言説、性別を見た目で判断し周囲に聞こえる声でトイレを案内したLGBTイベントのスタッフ、そのほかいくつもいくつも、私はレインボーフラッグのある空間で不満を感じてきた。

 昔ツイッターで、パレードは政治的なデモなのかお祭りなのかという話題が出たとき、私はこんなことを書いた。

ボクにとってのプライドパレードは、単に「楽しいこと」でも「政治的主張の場」でもない。それでもボクはプライドパレードを楽しむ。重い体重に数時間以上も耐えた足がその後数日間も悲鳴を上げ続けても、あるいは暑さにやられてクラクラした頭が目の奥まで焼き尽くすように痛くなっても、ボクはプライドパレードを楽しむ。それは、楽しいものから楽しさをもらっているのではない。楽しいのか楽しくないのかよく分からないものであるようなパレードを、「無理矢理楽しむ」のが、プライドパレードなのだと、ボクは個人的に思っている。そして、それこそがボクがプライドパレードに見出す政治性であり、可能性なのだ。

マイノリティと同調圧力

 レインボーに限らず、これがLGBTQ+のカルチャーですよ、あなたがたを代表してるんですよというものは、いつだって少し離れたところで盛り上がっている。

 クラスの人気者たちが文化祭の出し物で「何がうちら3−5らしさか」を話し合っているのを横目に、無関心を決め込んで帰ることもできず、話し合いの中心に入ることもできない自分が唯一文化祭までの日々を楽しむ方法——人気者たちの輪の端のあたりに立って、ときどき笑ったり考え込むふりをしたり、万が一意見を求められたときに軽く言えるくらいの考えを用意しておく——を選ぶときのような気持ちを私は、レインボーにもパレードにも抱えている。

 だって、「うちら3−5」って、私も言いたいもん。「3−5やるじゃん」って、思われたいもん。「そこに自分もいたんだな」って、振り返りたいもん。あんなやついたっけって全員が思ったとしても、同窓会で「いたよー」って言いたいもん。

 私にとってレインボーは、ずっとそういう存在だ。私を含んでいるようだけど、私がしがみつくのをやめたら一瞬で離れていってしまいそうなもの。

 だから、紅白でのMISIAのパフォーマンスは、私にとっては「うちら3−5」が合唱で優勝したようなものだった。私は自分が3−5だから嬉しいんじゃない。3−5の優勝を喜ぶことで、私は3−5になるんだ。私は、泣いて喜ぶ陽キャがテンション上がってるのをチャンスとばかりに、泣きそうな顔をして近づいてハイタッチをする。ああ私も3−5だ。

 本当はMISIAは好きなアーティストでもないし、今回のことで好きになったかといえば別にそうでもない。でもなんか、好きになれるところがあるかもしれないと思って少し検索してみたりしちゃったし、逆に嫌いな部分が出てきちゃったとしても、周りには言いづらいなあと思っている。

 そんな同調圧力ゴリゴリの学校生活なんてろくでもないし、レインボーがそんな存在であっていいわけがない。気を抜いているといないことにされるなんて、とんだ「多様性の象徴」だ。でも私にとってそれはまぎれもない現実であって、いつだって少し無理をしてレインボーフラッグにしがみついてきた。

 地方のLGBTQ+、貧困層のLGBTQ+、民族マイノリティのLGBTQ+、障害を持つLGBTQ+、そうじゃなくてもいわゆる二丁目文化やクラブカルチャーが苦手だったり行きづらかったりするLGBTQ+はたくさんたくさんいる。その中には、私みたいにレインボーに振り落とされそうになりながらしがみついている人がきっといるだろうと思う。「私も3−5だ」って。

 そこに「国民」という枠組みをドカンとぶつけてきたのが、2019年の紅白だった。

多様な「国民」として呼びかけられたLGBTQ+

 もちろん日本のどこにいても「国民」の枠組みは強固だし、昨今の排外主義の盛り上がりは社会のすみずみまで窮屈にしている。「日本のいいところ」を扱うテレビ番組はいまや大人気だ。先日も、わざわざ海外に行って「このへんに日本人が作った〇〇があると聞いたんですがご存知ですか」と街の人に聞いて回る番組を見て、気分が悪くなったのを思い出す。

 だから、紅白がどうの、「国民」的アイドル嵐がどうの、令和がどうの、オリンピックがどうのとやっても、「ああ、まあそうだろうね」と思うくらいだ。毎年やってる「国民」的番組ね、と。

 でもレインボーが出た瞬間、当事者は「3−5、集合」をかけられる。中でも、しがみつき気味な私達は少しの焦りと高揚感を感じて、集合場所に向かってしまいそうになる。へたしたら、令和がどうとか言いだしてしまう人もいる。それが「3−5らしさ」なら、と。

 MISIAが出なけりゃよかったとか、レインボーを出さなきゃよかったとか、そんなことは少しも思わない。「やるじゃん」って思ったし、あのパフォーマンスに関わった人たちみんなに「すごかったよ! お疲れさま!」って言いたい。でもそうやって自分もテンションを上げるのは、自分も3−5にならなきゃという気持ちがあるからで、今はMISIAを称賛することで3−5になれるからだ。

 でも正直、今は3−5になってはいけないと思っている。なろうと思っても、私の心は苦しんでしまうだろう。紅白でかけられた集合に応じることは、私の大切な家族や友人たちを踏みつけることだから。

悪いものは悪い、話はそこからだ

 今回のことをうけ、異論を言ったら「非国民」と呼ばれるような雰囲気にならないようにしなきゃね、とツイートした人がいた。これに対し、MISIA良かったじゃんあんま文句言うなよってスタンスの人たちが、「冷静になれ」「頭を冷やせ」「落ち着け」と言っていた。

 けれど私たちは紅白であのレインボーが出てきた瞬間、「3−5、集合」の号令に、既に心をかき乱されていたんだ。その呼びかけに、乗りたい、乗りたくない、乗らなくちゃ、乗りづらいな、乗ったらどうなるかな、乗らなかったらどうなるかな、と焦る私たちに、「あれには乗らなくていいんだよ」、「あれに乗らなくてもあんたは3−5だよ」と肩を叩いて落ち着かせてくれたのは、国家主義的な番組構成にレインボーが含まれたことに対して疑問の声をあげた人たち、つまりまさにかれらの言うその「文句」だった。

 でもそんな批判は、ツイッターで思いっきり叩かれた。「正月休みでヒマな左翼が手癖で『懸念仕草』のクリシェをやってるだけ」で、「意味のない批判」だという。

 そうか、たしかに「手癖」というのは鋭いなと思った。世の中国家主義にまみれていて、あっちを見てもこっちを見ても似たような問題が見つかる。原則論として悪いものを悪い、危ういものを危ういと指摘していると、いつしかその指摘もパターン化してくる。たしかに「手癖」でできるようになってしまうだろうな。

 また一方で、指摘してもすぐには変わらない世の中にあきらめを感じて、ベタな原則論を言わなくなってしまう人も多い。

 でもね、悪いものを悪い、危ういものを危ういと言う原則論は、大切なんです。具体的にどういう社会をどうやって作っていくかとかの方法論が大切なのと同じように、原則論も大事。たとえば法律を勉強する人は、ひとつひとつの法だけではなく、なぜ、どんな思想で、何を守るためにその法律が作られたのかを考えなさいと言われるらしい。法律や条例によく「背景」が書かれているのは、どういう原則を共有した人たちで話し合って作ったかを明らかにするためだ。

 それと一緒で、原則と方法は、社会の改善のための両輪だ。どちらも大切で、必要なんだ。

 日々の戦いで疲弊して、道が見えなくなったとき。自分のしていることが正しいのか自信を失ったとき。そんなとき、立ち返る原則を持っていなかったら、迷子になってしまうだろう。対立する相手にゴールポストを動かされても気づけなかったり、戦略的に動こうとして自分たちの尊厳を傷つけてしまったりして、一貫性に欠けた、その場しのぎの社会運動になってしまう。

 私たちは、どれだけ凡庸でも、どれだけ理想論と揶揄されても、「手癖」と言われるほどのクリシェだとしても、原則を手放してはいけないんだ。

「「MISIA、かっけー!」だけでいいのか 紅白に突如現れたレインボーに感じた興奮と戸惑い」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。