相模原障害者殺傷事件―日本に植松聖被告を裁く資格はあるのか?

文=みわよしこ
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精神科入院の退院のハードルは高くなった

 相模原障害者殺傷事件は、精神障害者にも、好ましい変化は全くもたらさなかった。

 前編で述べたとおり、事件直後から植松被告の措置入院解除と退院後の「野放し」が問題とされ、措置入院の解除に関して慎重さが求められるようになった。つまり「退院しにくくなった」ということである。また、あくまでも本人の同意に基づくこととはなっているが、居住地の自治体や警察を含む「退院後支援」が求められることとなった。強制ではないが、「同意しないと退院できない」と言われて仕方なく同意した事例が、実際にある。同意して退院すると、地域の数多くの人々が自分に関する情報を持っており、職権のもと、「何か危ないことをしでかすのではないか」という懸念や「また入院させるべきではないか」という思いをもってつきまとって来ることになる。

 精神医療サイドは、措置入院を解除し退院させるにあたって、より慎重にならざるを得なくなった。「何かあったら、どうしてくれるんだ」という懸念に納得を与え、そして実際に「何かあった」時に「やるべきことはやっていました」というアリバイを示すためにも、「退院後支援」を徹底しなくてはならない。間違っても、事件直前の植松被告のように、どの機関にも関与されていない状態にしてはならない。そのようなプレッシャがかけられることとなった。

 このことは、精神医療にも精神障害者にとっても不幸な成り行きをもたらしかねない。日本の精神医療はもともと、社会防衛が第一義的な役割となっており、患者の利益は「社会防衛のついでにもたらされることもある」という位置づけである。この状態を解消し、精神医療を通常の医療と同じ「まず患者のために」という位置づけに置くことは、日本が解決すべき社会課題であるはずだ。

 しかし相模原障害者殺傷事件を契機として行われた数々の見直しは、それ以前にも増して、精神医療の「精神障害者から社会を守る」という性格を強化してしまった。精神医療従事者は、警察の制服を来た警察官とともに、精神障害者から社会を守る白衣の警察官となる。むろん、法や施行規則のどこにも、「必ず、白衣の警察官にならなければならない」とは書かれていない。しかし少なくとも、「精神医療従事者の役割は、精神障害者本人のために本人の治療を行うことであり、本人から社会を守ることではない」という方向性は見られない。

 精神障害者は、精神医療に対して、どこか恐怖と不信を抱いた状態でいることになる。精神医療サイドは、患者と医療の相互信頼が成り立ちにくい土台と前提のもとで、治療を行うことになる。治療の効果は上がりにくくなるだろう。

 むろん、制度はあくまで枠組みであり、実際に治療を行うのは個々の精神医療従事者である。地域の各機関との連携が、精神障害者に対して提供する環境は、担う人々にかかっている。現在の「退院後支援」の枠組みに沿って、人道的かつ良心的な治療や福祉サービスが提供され、相互信頼のもと、精神障害者と社会の幸福が実現される可能性もある。2016年以前に、そういう状況を実現してきた地域や機関は実在する。しかし、枠組みが人権侵害の仕組みとなっているところで尽くせる努力には、限界がある。

日本に、植松被告を裁く資格はあるか?

 2016年7月26日以後、日本の知的障害者に対する収容主義は「改善された」とは言えない。精神障害者に対する「危険だから隔離または監視を」という扱いは、洗練された形で強化された。結局、相模原障害者殺傷事件の19人の犠牲者は、障害者の人権侵害を何ら改善しない形で、政治利用されてしまったのではないだろうか。

 「19人を殺害した」ということに関して、単なる大量殺人として植松被告を裁く可能性は残る。しかし殺害された19人は、全員が知的障害者であった。被害者が障害者であることを理由として罪が軽くなることは多いが、重くなることは稀である。

 特に、精神障害を持つ中年の子どもを高齢の親が殺害した事件では、殺人罪で起訴されても執行猶予つき判決(2015年、和歌山地裁)や3年の実刑(2016年、大阪地裁)など、「子は殺されても致し方なかった」と言わんばかりの判決が続いてきた。2019年6月、東京・練馬区で精神疾患をもつ40代の長男を刺殺した元農水省事務次官に対し、12月に実刑6年の判決が下ったが、現在までの“相場”を知っていると、例外的に重い判決と感じられる。判決を知った瞬間、筆者は反射的に「相模原障害者殺傷事件の公判を前に、『被害者が障害者であっても殺人は罪』という世論を醸成しようとしているのか」と勘ぐってしまった。

 知的障害者が故意または過失によって死亡した場合の刑や損害賠償額は、人命に対するものとは考えられないほど軽い。

 2007年、佐賀県で知的障害を持つ25歳の青年が、警官5人に取り押さえられた際の暴行によって死亡したが、警官らは無罪が確定している。また損害賠償に関しても、「就労せず収入を得ないので、逸失利益は0円」という判断が圧倒的に多い。

 2009年、青森県で障害基礎年金を逸失利益とする判決が行われ、障害基礎年金や最低賃金を逸失利益の算定基準とした判決や和解が現れはじめた。2019年3月、施設の過失によって知的障害のある少年が死亡した事故の損害賠償に関して、東京地裁は2200万円を逸失利益として計上する判決を示している。

 背景には、政府が障害者の就労を促進しているため、少年の将来の就労の可能性や期待される収入が大きく見積もられたことがある。しかし、健常者と同等に逸失利益が計上されるようになったわけではない。2019年3月の判決の後には、施設経営者などから「訴訟リスクを考慮すると障害者を受け入れられなくなる」という声もあった。

 もしも2016年7月26日、植松被告に殺害されたのが19人の健常者であれば、死刑判決は必然かもしれない。しかし、2016年当時も2020年現在も、知的障害者の生命の価値が、法廷で健常者の生命の価値と同等に扱われているという事実はない。障害者の生命の価値は、相変わらず“値切り”され続けている。そしてあの日、津久井やまゆり園で殺害された19人は、就労して収入を得ることが期待できない障害者だった。

 筆者は思う。今の日本に、植松被告を裁く前提はない。公判で量刑を行うにあたっては、まず、罪の質と量を明確にする必要があるはずだ。質と量は「殺人」と「19人」という形で明確になっているが、誰もが避けて通っている問いがある。就労収入を得ることが望めない知的障害者19人は、健常者の何人に相当するのだろうか?

 筆者の考えは「19人!」であり、迷いはまったくない。しかし、日本の現状と過去の判決に照らす限り、「健常者19人に相当」という判断は決して成り立たないはずだ。

 まずは、「知的障害者19人=健常者x人(xは19以下の実数)」という方程式を解かなくてはならない。現在の社会通念と裁判判決例などに照らせば、xは19よりも小さな実数になるはずだ。福祉や介護や医療を「コスト」として計上すると、xは負の実数にすらなりうる。つまり、この方程式を解くこと自体に、植松被告の「障害者は不幸を生み出すから安楽死させるべき」という論理の追認となる可能性が含まれるというパラドックスもある。それでも、まず、このパラドックスを含めて、現在の日本に誠実に向き合うことが、植松被告を裁く最低限の前提であろう。

事件の真の主役は、あなた自身

 2016年7月26日まで、そして2016年7月26日以後を100年単位で眺めてみると、相模原障害者殺傷事件に関する別の様相が浮かび上がる。

 長い時間軸で捉えると、一連の出来事の主役は人間の社会、特に障害者を取り巻く社会である。ドイツにナチスが現れ、障害者を抹殺した時期もあった。舞台装置は緩やかに、また急激に変化するように見える。しかし主役は、その時期を生きるすべての人々である。

 この群像劇に関して、日本には100年以上にわたって、新しい演目が現れていない。2014年、日本は国連障害者権利条約を締結したため、舞台装置は大きく転換されなくてはならないはずである。しかし、目に見える大きな変化は、まだ現れていない。

 2016年、多くの人々の注目を集める狂言回しとして、植松被告が出現した。この狂言回しは、数多くの言動で観衆の注目を集めたが、狂言回しとしての役割は、そろそろ終わる。舞台のどこかに何らかの役割を与えられるのだろうか。それとも、完全に退場させられるのだろうか。現在、観衆の関心の中心は、そこに集中している。すなわち、量刑と刑罰だ。

 植松被告がこの世から消えようが、どこかの刑務所で刑に服し続けようが、群像劇は続く。演じる役者の一人は、他でもなく、あなた自身である。

 筆者自身は、「障害者は生きるに価しない」とは思わない。障害者の命の価値が「値切り」され続けてきた歴史にも、悲しみを覚える。しかし、今、御都合主義的に、知的障害者の生命の価値を健常者同等に引き上げ、植松被告に対して「死刑以外にありえない」と考えるべきだろうか。「将来、植松被告が死刑に処せられれば、、何かが決着する」と期待してよいのだろうか。

 「人類と日本の現在」という群像劇を演じ続けるあなた、そして私は、判決が示される前に、この問題に何らかの解答を用意しておく必要があるだろう。

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