妄想食堂「焼肉屋の鏡に映る私のかわいさをナンパ男は知らない」

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 寂しい気分だった。日が沈む頃に中央線に飛び乗って新宿へ向かった。家に一人でいるのが嫌で、でも人とは一緒にいたくない。新宿はそういうときに都合がいい街だと思う。

 空気は冷え切っていて、音もなく小雨が降っている。適当に羽織った薄手のコートでは少し寒い。新しいコートが欲しい。上着だけでなく、今日は何もかもが適当だった。二軍落ちのニットとジーンズ。靴と合っていない靴下。顔面は未塗装なうえにコンディションが悪く、今さら決まりが悪くなってどうにかしようにも、透明のリップクリームすら手元になかった。

 まったくいけていない。寒さと心もとなさで背中が丸くなる。どうか知っている人に会いませんように。雨粒は霧のように細かく、それでも着実に私を濡らしている。バッグから折り畳み傘を出すべきか悩みながら、そのままだらだらと道を歩いていると、肩に意図的な動きで何かが触った。

「あのー、ちょっとすみません」

 ナンパか。それとも道を聞きたいのか。あっやっぱりこれナンパだ。思わず顔を上げた瞬間に後悔する。いつもなら無視して足を速めるところを、気が弱っているせいか、つい反応してしまった。それだけでもう軽い屈辱だった。

「すごいかわいいって思って声かけちゃったんですけど」

 嘘だ。今日の私がかわいくないのは私が一番よく知っている。すっぴんで、顔色が悪く、肌荒れと隈が酷くて、唇の皮も剥け、髪の毛は湿気でごわごわに広がっている。服だって気にくわない。何よりそういう要素のすべてが、私を自信なさげな女に見せている。頼りなく御しやすそう。この人たちの言う「かわいい」とはつまりそういう意味だ。攻撃的な気分で思う。好きな服を着て、化粧がうまくいっていて、胸を張ってきびきび歩いている日には、こいつらは近寄ってこない。

 むしゃくしゃしたので、肉を焼くことにした。今は自分を強くしてくれるものがほしい。ナンパ男との遭遇は、確実に私の中の何かを減らしていた。自尊心とか自尊心とか自尊心とか。

 くそっ。たしか西口の方に一人向けの焼肉屋があったはずだ。スマホで道を調べて向かう。今度こそ誰にも話しかけられたくなくて、がつがつと靴底で地面を叩くように歩いた。頭が嫌な感じに濡れるのをハンカチで防ぎながら。

 店は駅から少し離れたところにあって、全体的に明度の高い小綺麗な造りをしていた。全部の席がカウンターで、一席に一台小さなロースターが埋め込まれている。注文はタッチパネルで、いろいろな肉を少しずつ組み合わせて頼めるようだった。

 カルビと牛ホルモンを50グラムずつに、白ご飯とキムチとスープのセット。それにサラダもつけて1100円。お冷やは席に備え付けの蛇口から汲む。焼肉屋に回転寿司と定食屋の要素を合成して今ふうにアップデートするとこうなるのだろう。

 店内では、横一列に並んだ客たちが粛々と肉を焼いている。おそらく回転率を高めるため、ロースターはやたらと高火力だった。油断しているとあっという間に焦げるが、「肉は強火でさっと焼く教」の信者としてはむしろ喜ばしい。

 誰の顔色も伺うことなく、ひたすら無言で肉を焼く。にんにくも容赦なく入れる。スープ、サラダ、肉、ご飯、キムチ、ご飯、肉、キムチ、ご飯、肉。とろける脂。輝くお米。調和。恍惚。もうずっとこの渦の中にいたい、とすら思う。寒さも苛立ちも心細さも熱と脂に溶かされ、今はもう多幸感と充足だけがあった。

 店を出る前にお手洗いを借りることにした。用を済ませ、髪がひどいことになってはいないかと備え付けの鏡を覗く——すると、そこには驚くほどかわいい女がいた。

 頬は薔薇色に染まり、瞳は生命力にあふれて瑞々しく輝いている。安らぎと高揚の狭間にある表情はゆったりときらめき、全身から幸福が立ち昇っているのが分かる。えっ何これめっちゃかわいい。自分の顔なのに二度見してしまう。それほどまでに、焼肉屋の鏡に映る私はいい感じだった。肉か。肉の力なのか。

 誰も入ってこないのをいいことに、狭い個室で、しばし鏡の中の自分と向き合う。当たり前だけど、見ている人はここにはいない。「かわいいね」と評価してくれる人もいない。それでも私は私のことをかわいいと思う。そのことがひどく誇らしい、とも。

 にっこりと笑ってみる。恥ずかしくなってやめる。ドアを開けて、伝票を手にレジへ向かう。店員さんに向けて少し笑う。お金を払う。外の空気はまだ冷たく、小雨が降っている。

 閉店間際のルミネに駆け込んで、ずっと気になっていたコートを試着した。ここひと月ほど通販サイトで監視しているだけだったそのコートは、羽織ってみれば誂えたように私の体に馴染んだ。軽くて暖かい。今夜、これを着て帰ることができたらどんなに素敵だろう。

 浮かされるように、というか浮かされよう、という意志を持って、その場で購入を決めた。店員のお姉さんにタグを切ってもらい、そのまま肩にかけてもらう。着ていた上着は綺麗な色の紙袋に入れてくれた。帰り際、ショーウインドウに映った自分の姿がとても満ち足りて見える。「それ、お似合いですよ」「ありがとうございます」。言われなくても嬉しいし、言われても嬉しかった。

 暖かな上着の中で体をくつろがせながら、前を見て、しっかりと傘をさして歩く。今日の私がかわいいことは、私が一番よく知っている。はあ、と吐き出した息は白く、うっすらとにんにくの匂いがした。

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