
写真:AP/アフロ
麻生太郎副総理兼財務大臣が、地元・福岡県内での新春国政報告会での講演で多くの有権者を前に「2000年の長きにわたって一つの国で、一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝、126代の長きにわたって一つの王朝が続いているなんていう国はここしかありません」と発言した。
この発言は昨年のラグビーワールドカップでの日本チームの活躍を称える流れで出た。麻生大臣は「純血を守って何も進展もしないんじゃなくて、インターナショナルになりながら、きちんと日本は日本を大事にし、日本の文化を大事にし、日本語をしゃべる」とも語っていた。しかし、「単一で純粋な日本人」を誇るその裏に、何があるのだろうか? ケイン樹里安さんに寄稿いただいた。
気にせずに済む特権
麻生太郎財務大臣の失言が話題だ。
「2000年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない」
この発言を知ったときに、脳内に浮かんだのは次の言葉だ。
「え、また……?」
日本社会で暮らすなかで、幾度となく聞いた「日本人は単一民族である」という聞きなれた言い回しに、バリエーションがまたもや加わったように思われたからだ。
ヒトゲノムの解読によって、血統ないしは人種というものが明確に否定された現代において、「単一の日本人」という存在が実体をもってそこにいるかのような発言を政治家がすることに大変な驚きをもって聞いていた。
「日本は2000年にわたって同じ民族」――そもそもなぜキリスト教をもとにする西暦を意識した言い回しなのだろう――といった言葉づかいは、麻生財務大臣に限らず、しばしば聞かれるものである。
実は「日本人は単一民族である」という語り方は、1960年代以降にブームとなった「日本人論」のなかで盛り上がりをみせたものだ(小熊英二『単一民族神話の起源:<日本人>の自画像の系譜』新曜社)。やや荒っぽい言い方をすると、今から約60年前にブームとなった「日本人の語り方」のパターンを、麻生財務大臣は2020年にもなってまだ公の場でスピーチしているのである。
こうした言葉は、「単一」ないしは「純粋」とされる「日本人」を、経済的格差や生育地や家庭環境や食生活や宗教や方言やジェンダーやセクシュアリティや社会的障壁のありよう……ほかにもさまざまな異なる社会的属性をもつ多様な人々をむりやり「ひとくくり」にする言葉である。
それだけではなく、日本社会に暮らすさまざまなルーツをもつ人々と「日本人」を二項対立的に強制的に切り分ける言葉でもある。一方は「純粋」で、他方はそうではなく、一方は、「文化的に同質」で、他方はそうではない、といったように。
さらに、両者のあいだの差異を強調しながら、多様なルーツをもつ人々の経験や状況を後景化したり、ないがしろにする効果と共にある。そして反対に、「単一」で「純粋」な「日本人」に何かしらの権威を付与するような――たとえばそれは「誇り」と形容されたりする――言葉づかいである。
日本人は単一民族である」という聞きなれた言い回しは「自分は日本社会の正当な構成員である」と信じて疑うことがないままに過ごせる状況にいた人々にとっては、何気ない、聞き流してもかまわないように思われる言葉である。なぜなら、「お前は日本社会の正当な構成員ではないのではないか?」という攻撃的なメッセージを帯びているからだ。
一部の人が「気にしすぎ」なのだろうか? いやそうではない。「気にせずに済む」特権をもった人々(マジョリティ,多数派)と、そうした特権をもたない人々がいる、という話である。
そうした攻撃的な言葉を公の場で政治家、それも財務大臣が発したこと自体、まずは批判されるべきだろう。だが、同時に、確認しなければないないことがある。それは、「日本は2000年にわたって同じ民族、一つの王朝が続いている」という言い回しが、はじめから自壊していることだ。
敗戦後に狭められた「日本人」の範囲
まず、日中戦争から太平洋戦争にわたって、大日本帝国は占領、植民地とした国の人びとを皇民化政策の標的としたことを確認しよう。
皇民化政策とは、天皇を頂点として民衆がそれに従属する体制を、他国の人びとに強制するということである。つまり、天皇に従う「日本人」の範囲を強制的に――しかも内地・外地で序列化するかたちで――拡大する政策を実施してきたのだ。
それは、他国の人々が慣れ親しんだ歌や旗や言語の使用を禁じ、教育の内容や名前までも「日本人にする」ための強制的な政策の数々である。要するに、麻生財務大臣のいう「王朝」である天皇制を前提とする体制自体が、「日本は2000年にわたって同じ民族」という状況をつくってはこなかったのである。
「日本人」ないし「皇民化」の対象とされた人々の範囲は揺れ動きがあり、はじめから、彼の議論の論拠は崩れている。しかも、皇民化政策という同化政策の対象とされた人々からすれば、天皇制および軍事的な圧力のもとで「同じであることを強いられた」以上、麻生財務大臣の「同じ」という発言は、どのような意図であれ、かつての植民地的な関係を反復させるようなメッセージだと言わざるをえない。
さらに、敗戦後に「日本人」の範囲を狭めることで朝鮮半島にルーツをもつ人々を「外国人」とみなす仕組みを日本社会は生み出してきたように(朴沙羅『外国人をつくりだす』ナカニシヤ出版)、「日本人」の範囲は覆され続けてきたのだ。
こうした歴史的経緯があるにもかかわらず、1960年代に活況となった「日本人は単一の民族だ」という人為的に作り込まれた、そして極めてパターン化されたストーリーは――小熊英二はこのフィクションのことを「単一民族の神話」と呼んだ――2020年は再演をむかえることになったのである。
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