重度難聴でもコミュニケーションはできる。でも、子どもは産みたくなかった。

文=玉居子泰子
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「デフサポ」代表 牧野友香子さん(撮影:玉居子泰子)

 病気や障害、その他さまざまなトラブルは、私たちの人生にいつ訪れるかわからない。子育て中に病いに倒れることもあれば、先天的に疾患や障害を抱えていることもある。

 生まれながらにして重度の聴覚障害がある牧野友香子さん(31歳)。彼女が24歳で出産した娘は、50万人にひとりの確率で発症する難病を抱えて生まれてきた。

 自身の病いと子どもの病い。両方を抱えながら前向きに人生を歩む彼女は、現在、聴覚障害児への学習・教育支援やカウンセリングを行う団体「デフサポ」を営んでいる。ユカコさんのこれまでの歩みや、妊娠・出産・子育てについて話を聞いた。

両親が難聴に気づいたのは2歳の時

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(撮影:玉居子泰子)

 ユカコさんの難聴のレベルは両耳120dB。周囲の会話はもとより、車のクラクションやジェット機の音さえ聞こえない。

 そのことが分かったのは、ユカコさんが2歳になってからのことだった。

 現在でこそ、厚生労働省は先天性難聴の早期発見を目指し、生後30日以内のすべての新生児を対象に新生児聴覚スクリーニング検査受診を奨励している。だが、ユカコさんが生まれた1988年当時には、まだ早期の聴覚検査はなかった。

「何かがおかしい」

 ニコニコとよく笑うこの赤ちゃんは、もしかして耳が聞こえにくいのかもしれない。最初に気がついたのは母親だった。

「顔を見て話せば、あーうーと反応を示すのに、後ろから呼びかけたらまったく返事をしない。電気を消して部屋が暗くなると途端になにも話さなくなる。言葉の出も遅いので、母はもしかしてと思っていたようです」

「精密検査をして初めて、重度の難聴だと判明しました。そこから半年後に補聴器をつけ、ようやく少し音が入ってきたんです」

 だが、その頃までに、ユカコさんは両親の口の形を見て、言葉を読む感覚を自然に学んでいた。時には母の言葉を真似て、似たような発音で「ワンちゃんワンワン」などということもあったという。

ユカコさんは3歳になり、母は悩んだ末、聾学校ではなく一般の幼稚園に入園させた。

 聾学校は当時手話での教育が始まりだした頃で、手話で育てるか口話で育てるかを悩んだ。手話だと情報も確実にわかり安心だが、外の世界に触れる機会は少なくなる。

 娘には出来るだけ多くの人と知り合う機会を持って欲しい。そう思った母は、幼稚園と並行して発音やことばを学ぶ「ことばの教室」にもユカコさんを通わせた。

 この教室で徹底的に発音とことばを学んだおかげで、現在、ユカコさんは、一般の人とほぼ変わらないスピードで口話でのコミュニケーションが取れる。相手の口の動きを読み取り、それに応じて返事を返す。

 取材時、「ゆっくり話した方がいいですか?」と聞く私に、「いえ、普通のテンポでお願いします。ゆっくりだとかえって読み取りにくいんです」と笑った。そしてその言葉通り、取材中、言葉のキャッチボールに困ることはまったくなかった。冗談や大阪弁を交え、コロコロ表情を変えながら質問に答えてくれるユカコさんは、話すことを楽しんでいるように見えた。

「幼稚園も、小学校以降もずっと普通学校に通っていました。友人はほぼ健聴者ばかりで、夫もそうです。大学を出て就職してからは、一人暮らしをしました。

 もちろん、聾学校に行ってしっかりしたサポートを受けるメリットは大きいし、普通の学校で苦労したこともたくさんあります。ご家庭の考えや本人の状況によって、どんな環境で育てるのがベストかはそれぞれ異なります。でも、いろんな選択肢を持てるようにと、様々な挑戦をさせてくれた母にはとても感謝しています」

両親との会話に入れないドライブ

 ユカコさんには健聴者の妹がいる。家の中でも、学校でも、自分一人だけが耳が聞こえないことで、不自由や寂しさを感じたことはなかったのだろうか。

「家の中ではそんなに不自由はありませんでした。みんな私の顔を見て話してくれました。妹は特に私と話すのがうまくて、私が顔を上げたタイミングで話しかけてくれる。生まれた時から当たり前になっていたから、自然に覚えたみたいです。

 ただ親同士の大人の会話には全然入っていけなくて。妹はなんとなく聞いて『いま、両親は機嫌悪いぞ』とわかるのに、私は気づかないからいつも空気が読めない(笑)。

 家族で車に乗って出かけると、前の席の両親と妹の話題に入れないから、ドライブは嫌いでしたね。学校でも女の子たちがグループで噂話をしたりする時は会話がわからないところもあって苦手で。聞き返しづらいときは聞いているふりをして会話を流したりもしていました」

 それでも、“真面目な父”と“明るくて楽観的な母”、“クールな妹”に囲まれて、ユカコさんはすくすくと育ったし、学校でも聞こえないことを特別扱いされず、たくさんの友達に恵まれた。

「中高生になるとケータイ電話が流行り始めて。メールを使ってやり取りできるようになってからは、友達との会話もすごく楽になりましたね。

 ただ、学校の授業はずっと苦手でした。先生の口の動きをずっと見ていないと、ついていけないし後ろ向きに話されるとわからない。英語のテストでリスニング問題が出るとどうしても0点になります。

 リスニングの割合を変えて欲しいと先生に交渉したこともありましたが、当時は合理的配慮なんてないからなかなか意見は通らなくて。『だったら赤点になる点数をゆるくしてください!』と食い下がったりもしていました(笑)。おかげで交渉力は身についたかな」

 ハンディがあるぶん、どういう理解が必要なのか。どんな環境下と条件下なら能力を発揮できるのか。ユカコさんは自分にできることと必要なサポートを明確にし、周囲の手を借りながらチャレンジをし続けた。

 大学では心理学を学び、就職は障害者雇用枠ではなく一般枠で応募したソニー株式会社からの採用を獲得した。東京で一人暮らしを始め、仕事に遊びにと青春を謳歌した。

 だが、一つ心に決めていることがあった。

 それは「子どもは絶対、産まない」ということだった。

予想外の出会い、結婚、そして妊娠

 高校生ごろからユカコさんは「将来子どもは産まない」と決めていたという。家族や友人に恵まれ楽しく生きてきた。でも、聞こえないことで人とは違う苦労を重ねてきたことも事実だ。

「遺伝への恐れは強くて。結婚はしてみたいと思っていたけれど子どもは産みたくないと。母は『それもいいんちゃう?』と言ってくれました。『でも、何があるかわからんしな』とも言ってましたね」

 何があるかわからん。まさに、人生はそんなことの繰り返しだ。

 東京に出て自立してからユカコさんは、毎日を謳歌していた。朝はウェイクボードをしてから出社し、夜は飲み会に参加した。会社の上司や同僚にも恵まれて仕事は楽しかった。

 ある週末、友人に誘われて出かけたキャンプで一人の男性と出会った。のちの夫になる人だ。

「夜通しワインを飲んで、仲良くなって(笑)。そこから割とすぐにおつきあいが始まって、1年後には結婚しました。展開が早いですよね(笑)。彼にも子どもが欲しくないということは伝えていましたが、『別にいいよ』という返事でした。まだお互い若かったですしね」

 生まれてくる赤ちゃんのことも心配だが、何より難聴である自分に、どんな子育てができるのか。それを考えると不安になった。手話をしながら子育てをしている人の話題は、ニュースや記事にもなることがあったが、口話で子育てをしている聴覚障害者のロールモデルはなかなか見つからなかった。

「そういう人もいたのかもしれませんが、私は聾学校に行かなかったので、聴覚障害がある人との繋がりが逆に少なくて。

 子どもを産んだとして、たとえば赤ちゃんが夜泣いてミルクを欲しがっても、聞こえない自分はどうやって気付いてあげられるんだろう。赤ちゃんが急に体調が悪くなっても救急車を呼べないのにどうすればいいんだろう。そんなふうに細かい不安はたくさんありました。

 でもそれを聞く相手もいなかったし、誰かを探して聞こうという発想も当時はありませんでした」

 夫の母にも、子どもをつくる気はないと伝え、承諾をとっていた。

「そもそも耳の聞こえない私を最初から受け入れてくれて、結婚に賛成してくれた人だったので。別にいいんじゃない、と言ってくれて。ありがたかったですね」

 ところがやはり、人生は何が起こるかわからないものだ。ある時ユカコさんは、しばらく月経が来ていないことに気がついた。あれ、と思った時にはすでに妊娠5カ月になっていた。

「嬉しいよりも『どうしよう!』という思いが強くて。ちょうど仕事で大きなプロジェクトを任されたばかりだったので、キャリアはどうなるんだろう、とそんなことばかり考えていました」

 突然の妊娠に戸惑うユカコさんを、さらに不安に陥れる出来事が起きる。数カ月後に受けた検査で、お腹の赤ちゃんになんらかの異常がある可能性が示唆されたのだ。

<後編につづきます>

▼後編:重度難聴者による難病児の子育て「やるしかない」覚悟ができた瞬間

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