
橋本淳司氏
日本の水道事業は危機に瀕していると言われている。現在使われている水道管は高度経済成長期に整備されたものが多いが、その頃に敷設された水道管が老朽化し、次々と交換の時期を迎えているからだ。いまや15%が法定耐用年数の40年を経過しているとされる。
ところが、水道管を交換する体力のない自治体は多い。少子高齢化・節水技術の進歩によって、水道からの収益は下がり続けているからだ。
そうした問題に対処するといった理由づけで、2018年には改正水道法が国会で議論された。
この改正水道法によって、水道事業の運営権を民間企業に売却する「コンセッション」という方式の導入が可能になるが、水道民営化に関しては海外で失敗例が相次いでおり、反対意見が多く起きた。しかし反対派を説得する根拠は提示されぬまま強行採決されている。
そして昨年12月、宮城県議会がコンセッション方式を導入する条例改正案を可決した。これにより、日本でも水道事業の民営化が本格的に始まることになる。
しかし日本の水道事業は果たして本当に民営化で「救われる」のだろうか。コンセッション方式の問題を訴え続けている水ジャーナリストの橋本淳司氏に話を聞いた。
水道事業コンセッション方式の問題点とは?
──宮城県において水道事業の運営権を民間企業に売却するコンセッション方式を導入する条例案が可決されたことは、この国の行政サービスの在り方を考えるうえで、とても大きい転換点だと思うんです。
橋本淳司(以下、橋本) そうですね。新しいやり方の1件目の事例です。
──水は生活や命に直結する問題にも関わらず、今、世間の関心は非常に低いように感じます。2018年に水道法の改正案が国会で議論されていたときは、水道民営化の問題点についてあんなに盛り上がっていたのに。
橋本 私も他のメディアでこの話について色々と書いているんですけど、反応は芳しくありません。東京をはじめ、宮城以外の場所では「地方都市で起きていること」といった捉え方をしているのかもしれません。
──まず、コンセッション方式とは、どういった仕組みなのですか?
橋本 コンセッションとは、最終責任は自治体がもつかたちで、運営権を民間事業者に売却するものです。
業務委託の場合は水質や水のつくり方に関して自治体からの注文がありますが、コンセッションの場合それはありません。水のつくり方は民間事業者の裁量に任されています。
そのため、民間事業者による創意工夫によって業務の効率化やコストカットが期待されているのですが……。
──しばしば報道されているように、海外では失敗事例が相次いでいますよね。
橋本 そうですね。コンセッションを採用しながら、契約満了後や契約途中で公営に戻すケースがあります。割合は少ないですが、比較的大きな都市が再公営に踏み切っています。
──なぜコンセッション方式はうまく行かないのですか?
橋本 コンセッション方式においては、自治体による「契約」と「モニタリング」が重要になってきます。
コンセッションではしばしば「水道料金の値上げ」「水質の悪化」が問題になりますが、それは、「誰がどういう責任をもって仕事をするか」という契約がきちんとできていなかったのと、それを自治体がモニタリングできなかった結果として起こるものです。
今回の宮城の例でいえば、20年という長期契約ですが、モニタリング能力が保てるのかということが危惧されます。
──20年も経てば、自治体の職員も異動したり、定年を迎えたりします。
橋本 そうです。他にも変化はありますよね。たとえば、気候変動への対策として新しい事業をやっていくとか、新技術を導入していくとか。
今は水道事業に精通した職員さんが役所にいて、コンセッション方式になったとしても「新しい機材が導入されたけれど、あれはなんだろう?」と目を光らせることができるけれど、10年20年と時間が経つにつれて、そういうことができなくなっていく可能性がある。それが問題です。
──水道事業のノウハウが自治体から失われてしまうことが問題であると。
橋本 コンセッションした後に再公営化した自治体の数がどれくらいあるかというのがよく議題になります。というのも、再公営化した数というのはあまり多くないから。
でも、ここまでの話で分かる通り、コンセッションしてから再公営化するのはとても大変なことなんですよ。
再契約する頃には自治体側に技術的な蓄積がなくなっており、本当はもうコンセッション方式を続けたくなくても、続けざるを得ない状況になっている可能性が考えられる。そしてその場合、企業側に有利な条件で再契約の交渉が進むでしょう。
だから、コンセッション方式を導入するのであれば、自治体側に水道事業をどう展開していくかの長期ビジョンがなければならないわけです。
水道管の図面が存在しない場所が日本中にある
──コンセッションという仕組みは、なぜ水道事業の救世主として語られているのでしょうか?
橋本 正直言って、それは僕も謎です。もともと水道事業のコンセッション方式というのは、アベノミクスの一環として出てきたもの。企業に余っているお金の投資先として考えられました。
──水道事業の危機を解決するために考えられた施策ではないのですか?
橋本 水道事業の疲弊とコンセッションというのは、実はあまり関係がない。本当に疲弊している場所は、たとえコンセッション方式の導入に乗り出したとしても、企業は手を上げないからです。儲かりませんから。
──公共サービスの民営化という議論だと反対しやすいですが、「危機的な水道事業を救うための手段」と言われると反対の議論も起きにくくなります。
橋本 そうですね。そこが政府や産業界の思惑通りにうまく結びついてしまったということだと思います。
──そもそも、具体的にどういった場所の水道が危機的状況にあるのですか?
橋本 簡潔に言うと、地方、特に過疎地ということになります。
たとえば、北海道は非常に広いですよね。土地が広いと必然的に水道管が長くなる。
水道管を整備するのには1キロあたり1億円かかると言われていますから、そういう場所では水道料金からの収益が低いうえに維持費に莫大なお金がかかります。
──なるほど。
橋本 そしてもうひとつ問題なのが、水道事業を担う人材不足です。先日、北海道の羅臼町というところに行ってきたんですけど、そこではこれまで職員さんがひとりで町全体の水道事業を担当していたそうです。
──約5000人が住んでいる羅臼町をたったひとりで!
橋本 その方はもう53歳で、あと7年したら定年なので、さすがにもうひとり担当者がついたそうですが。
──それでも町全体でたった2人ですか。
橋本 しかし羅臼町の水道の図面というのは紙やデータでは存在せず、その人の頭の中だけにあるそうです。
──図面がない?
橋本 その人はスーパー水道マンなんですよ。そういう人に頼り切ることでなんとか水道事業が成り立っている地域があるということです。
しかし、それでは、あまりにも属人化が過ぎる。そして、ブラック労働がまかり通り過ぎている。ちなみにその人は、もう8年間も北海道から出たことがないと言っていました。
──そんな状況では旅行にも行けないですよね。
橋本 そういった場所は羅臼町だけではありません。4割ほどの自治体が似たような状況にあると言われています。
図面が水道職員の頭の中にしかないような場所に、コンセッションを計画する企業は手を上げないですよ。
どれくらいの範囲に、どんな水道管が埋まっているのかすら分からない状況では、事業計画なんて立てられないですから。
水道事業に必要な「長期ビジョン」とは
──日本の水道事業はどうしたらいいのでしょうか?
橋本 改正水道法はコンセッション部分ばかりが注目されましたけれど、実は良いことも言っているんですよ。
ひとつは「適切な資産管理の推進」です。
法律では水道事業者等に台帳の整備を行うことを義務付け、さらに、水道施設更新に要する費用を含んだ収支見通しの公表を促しています。
水道事業の運営を民間企業に任せたとしても、施設は自治体がもっています。自治体は自らの施設(浄水場や水道管)について把握して、今後どのように更新していくかの計画を立てなくてはなりません。
ただこれは、財政上の補填などがないと、絵に描いた餅になってしまう可能性があります。
たとえば、先ほど話に出た羅臼町の職員さんに「図面をつくることはできますか?」と聞いたら、「つくれない」と答えていました。
壊れた水道管の補修など、目の前の仕事をこなしているだけで1日が終わってしまう。
だから、水道事業の未来を見据えた仕事をするためには、管理・維持以外の仕事をする余力をつくるために、人員を増やすことが必要なのです。
──図面をつくる時間をつくるためには、まず、日々の作業をこなしてくれる人材の育成が必要なわけですね。
橋本 あと、改正水道法にあるもうひとつ重要な項目が「広域連携の推進」です。
広域連携にはメリットとデメリットがありますが、大きなメリットのひとつは、連携することによって不必要な施設を削減することができるということです。
たとえば、岩手県の北上市・花巻市・紫波町が連携した岩手中部水道企業団の場合、計画段階の2011年度には34あった浄水施設を、2018年度には29まで削減することに成功しました。
この他にも、取水施設や排水池も数を減らすことができ、4年間で76億円の投資を削減しています。岩手中部の年間料金収入は46億円ですから、これはすごい削減です。
浄水場のような施設は、ただ存在しているだけで維持費がかかるので、広域連携して不必要になったものは減らすことで大きなコストカットを達成することができます。
この分を、長期プラン構築のために必要な人件費であったり、水道管の修繕・交換の費用にあてることができるというわけです。
──こうした施策は、単純にコンセッション方式を導入しただけでは生まれないものですよね。
橋本 そうです。コンセッションは事業運営の方法であって、施設をどうしていくかは自治体の仕事です。本当の意味で長期ビジョンに立つということは、「人口減少」という現実ときちんと向かい合って、徐々に町を小さくしていくことだと思うんです。
そのために必要なのは、図面がひとりのスーパー水道マンの頭の中だけにあるような状況を脱することであったりするわけです。
しかしコンセッションというのは、ただ「経営の方式が変わった」ということであって、将来の街のインフラをどうしていくのか長期ビジョンに立った考えではないわけですね。
「ポツンと一軒家」はどうなるか?
──お話を聞いていてもうひとつ気になったのは、町を小さくしていく中でいわゆる「ポツンと一軒家」はどうなってしまうのか、ということです。
橋本 将来的にはインフラが消えてしまう可能性が高いと思います。なので、お年寄りの場合などは介護施設への入所といったかたちで、コンパクトシティに入っていく例が増えると思います。
──しかし「ポツンと一軒家」に住んでいる人にもそれぞれ理由がありますから、「切り捨て」にならないような支援策があればと思います。
橋本 たとえ行政サービスの枠の外に出たとしても「ポツンと一軒家」に住み続けたいとなった場合、どういうインフラを用意するかですよね。一番可能性が高いのは、給水車が水を持って来ること。
あと考えられるのは、公共のものとは切り離された、独立型の施設を用意すること。
具体的には、井戸や雨水の利用などです。このようなかたちで「ポツンと一軒家」を“自己責任”で片付けるのではなく、“共助”できる仕組みを模索するべきだと思います。
──今後、少子高齢化の流れが止まることはなさそうですし、人口減少の問題はどんどん深刻になっていくでしょう。水道事業の問題は、日本が初めて「ダウンサイズ」の議論に向き合わなければならなくなった、時代の転換点と言えるのかもしれません。
橋本 これって逆に言うと、インフラの在り方を考え直すチャンスでもあるんです。
結局のところ「管でつながっている」というところが最大の難点なんです。
人が集まっている都市部ではそれでいいんですけど、過疎地ではコスト高になってしまう。
そのためにも、サプライチェーンをできる限り短くし、オフグリッドなインフラの在り方を考えていくことが求められているのだと思いますね。
──それって、電気でも似たことが言えるのではないでしょうか。
橋本 電気でも同じことが言えると思います。そしてそれは、気候変動に強いシステムづくりにつながるということでもあります。
激変する気候変動にどう対応していくかというのは世界的にこれからの課題となりますが、水道なら水源から蛇口までの距離、電気なら発電所から家などへの距離は短ければ短いほど気候変動へのリスクは低くなります。
──気候変動の問題にしても日本は海外との温度差を感じますし、危機感がなかなか共有されませんよね。
橋本 問題は切迫しています。いま議論されているのは上水道ですけど、その後には下水道が問題となっていきます。
下水道は上水道から15年ほど遅れて全国に敷設されていったので、交換時期を迎えるのはこれからです。
そして、下水道の方がさらに深刻な問題を孕んでいます。
というのも、下水道はもともと使用料でペイできていないので、それに水道管の交換費用が加わると自治体が被るダメージはとても大きい。
正直、自治体が破綻してしまう引き金を下水道が握っていると言ってもいい。
いまのまま行けば15年後にはさらに人口減少が進んでいくでしょうから、問題はさらに深刻なものになると思います。
だから、いま、各自治体が長期ビジョンをしっかり見据えて対策していかないといけないんです。
(取材、構成:編集部)