
橘みつさん(左)と、中村香住さん(右)
恋愛に興味がないのはおかしい? 依存は悪いこと? 人との適切な距離感とは? 自分を大切にするってどういうこと――? 私たちは自ら内面化している「常識」や「思い込み」を解きほぐすことで、少しだけ呼吸が楽になるかもしれません。1月に東京都内で開かれたトークイベント「『さびしすぎ』ない日常への一歩 ~対話型レズ風俗店長×”非モテ”レズビアン社会学者~」をレポートします。
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「このイベントの後、ほかのお客さんとお話しする機会があったりすると思うんです。そこで気を付けてほしいのですが、今日はどんな人にも安心して過ごしてほしくて。登壇者は、ここにいる方たちを状況や属性でジャッジして話さないように心がけます。皆さんもこの場では周りの人に対して、何かを決めつけて話さないようにしてみてください」
登壇者が足湯に足をつけながら語る不思議なトークイベント「『さびしすぎ』ない日常への一歩 ~対話型レズ風俗店長×”非モテ”レズビアン社会学者~」は、こんな言葉からはじまった。
主催・登壇は非モテ自認でレズビアンの気鋭の社会学者・レロこと中村香住さんと、対話型レズ風俗リリーヴのオーナー兼キャスト・橘みつさん。
共通の知人を介して知り合い、親交を深めていた2人が、対人関係にまつわる「さびしさ」などについて大人数で考え、共有したいと思い、このイベントを開催した。
レズ風俗でキャストとしても働く橘さんは、仕事中にお客さんの悩みを聞く機会が多い。「さびしさ」にまつわる事柄や感情について、話す機会があまりなく、ひとりで苦しんでいる人が少なくないのではという思いが今回のイベントの開催につながった。
会場は「自分のセクシュアリティや年齢、国籍を気にすることなく誰でも来ることができる居場所」をめざす足湯cafe&barどん浴。登壇者は足湯で温まりながらトークを展開する。キース・へリングのイラストや、LGBT関連イベントの案内などが飾られた店内に、年齢も性別もさまざまな50人強の参加者が集まった。
▼足湯cafe&barどん浴:https://donyoku.dosl2018.net/

リラックスムード漂う「どん浴」
事前に用意したトークのテーマは5つ。
・恋愛できないと半人前?
・「依存」というイメージ
・“適切”な距離感
・同じ分だけ想われること
・家か職場かという毎日
テーマに沿い、「恋愛ができない自分を否定してしまうのはなぜ?」「悪いものとされがちな『依存』だけれど、本当にそうなのか?」など、様々な事柄が話し合われた。それぞれのトークテーマで印象的だった部分を抜粋したい。

橘みつ
国際基督教大学卒業後、 都内の人材系ベンチャーに就職するが、精神疾患の診断を理由に3ヶ月で解雇。その後、銀座の高級クラブを含むさまざまな接客業を経て、2017年よりレズ風俗キャストに。在籍10ヶ月にして独立の提案を受け、「対話型レズ風俗 Relieve ~リリーヴ~」を開店。現在はオーナー兼キャストとして働く。かたわらでは、レズ風俗流行の背景に、性的な話題へのタブー視・人間関係の希薄さ・感情表現の難しさなどを見出し、それらをテーマとした講演やワークショップを開催している。
▼ツイッター:https://twitter.com/mitsu_lesbian
▼対話型レズ風俗 Relieve 〜リリーヴ〜 :https://relieve-you.jimdo.com/

中村香住(レロ)
慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程。専門はジェンダー・セクシュアリティの社会学で、現在の研究テーマはメイドカフェにおける女性の労働経験について。メイドカフェでノマド会所属メイド。NPO法人「秋葉原で社会貢献を行う市民の会リコリタ」スタッフ。レズビアン当事者としても活動を続けており、特に、ヲタクなセクシュアルマイノリティや”非モテ”に悩むセクシュアルマイノリティの居場所作りに関心を持って、実践しようとしている。過去に「アイドル×LGBT=?」「地方×LGBT×若者」などのイベントを主催。共著書に『私たちの「働く姫、戦う少女」』(堀之内出版)、『ふれる社会学』(北樹出版)、『ガールズ・メディア・スタディーズ』(北樹出版、近刊)がある。5年に一度、「レロ会」という交流会を主催している。
▼ツイッター:https://twitter.com/rero70
▼メイドカフェでノマド会:https://twitter.com/maidnomad
▼リコリタ:https://twitter.com/licolita
恋愛できないと半人前?
橘 私は対話型レズ風俗でキャスト兼オーナーとして働いているんだけど、中には「恋愛できない自分は人として”正しくない”んじゃないか」という悩みを抱えて来る人もいる。本心では望んでいないのに、無理に他の風俗や街コンに行ってかえって悩みを抱えた、なんていうこともあって。
また、お客様の中には、自分のセクシュアリティや内面を確かめたくて利用される方もいます。利用していろいろ試すことで「自分は恋愛(あるいは性愛)に興味がない」と納得されるみたい。
中村 結婚や出産を経験するのが標準的なライフコースであるかのような風潮がまだ残っていることもあり、(その前段階とされがちな)恋愛ができないと、社会的に欠けた人間のように思わされてしまうよね。あとは、「人は見た目じゃない」とか「恋愛には人格が大事」とか言われると、余計に「じゃあ、恋愛できない自分は人として何かが欠けているのか」と思ってしまったり。
ただ、最近は「そもそも私が望んでいる関係性は恋愛じゃないと(構築)できないのか?」と考えていて。友達とではそれは達成できないものなのかと。
「恋愛」って言葉は人によって様々な意味を含んでいるけど、自分は恋愛に何を求めているのか。 唯一無二の相手? 定期的なセックス? 無条件の自己肯定? そうやって考えていくと、もしかして中には恋愛じゃなくても達成できることもあるんじゃないかって。
橘 そう言われると、恋愛じゃないとできないことってなんだろうねえ。
中村 例えば、「惚気る」って行為は恋愛の特権かなって私は感じてる。でも、別に友達との関係性や友達の可愛い一面についても惚気たっていいはず。そういう話をTwitterに書いたら結構バズったので、最近は「#友達惚気」というハッシュタグを作って、友達について惚気る活動をしてみている。そしたら、私以外の人も、このタグで友達惚気してくれるようになって、なんだか嬉しい。
そもそも友達の中にもいろんな関係性があるのに、それが「友達」という一つの言葉にまとめられがちでしょう?家族・恋人・仕事関係の人以外のそれなりに仲良い知り合いは全員「友達」になってしまう。そこに違和感がある。 私は、「友達との関係性に名前をつける」というのをやってみたりしてる。親友氏・ばあや・悪友とか。そういう風に、恋人だけがオンリーワンじゃないということにしていくことで、恋愛の特権性を解体していきたいと思ってる。
「依存」というイメージ
橘 依存はよく悪いものと言われるけど、アルコール依存症のようなものならともかく、対人関係など(広義の)依存ってどんなものなのか? と思っていて。
リリーヴのお客さんの中には、「あと一滴で感情がコップからあふれてしまう」という状態で、私たちにしんどい話をしてくれる人がいる。お金を払っているから、せき止めていた感情を気兼ねなく吐き出してもいいと思えるんだよね。「そういう重い話をするのは面倒と思われそうだし、仮に話せてもその相手に依存しそうなのが怖い」と思って、友達には言えない人も多い。しんどい話の共有が、友人関係にとって悪いことだという考えが根強いのかな。
中村 私はあまりしんどい話をすることに抵抗がないかもしれない……。私の場合、感情をだだ漏れにさせるよりもある程度自分の中で整理してから話すことが多いのと、相手も私にしんどい話をしてくれたりするから、お互いにしんどい話ができる関係性だと思えている、そこに相互性があるというのが大きいかな。
社会心理学用語で「自己開示の返報性」っていうのがあって、自分が相手に自分の情報を開示すると、相手も同じ程度まで自身の情報を開示してくれると言われている。実際、こっちが相手に少しずつ内面をさらけ出すと、やや安心してくれて、向こうも「自分も話してみてもいいかな?」と思ってくれるようになることが多い気がする。
橘 どういう相手が、「しんどい話をしてもいい相手なのか」ってわかんないと思うんだよね……。
中村 まず一つには、一度、「じっくりとめちゃくちゃたくさん話す」時間を取ってみるといいかも。5時間とかぶっ続けで話していられる人とは、たとえその場ではしんどい話は出なかったとしても、今後しんどい話ができるようになっていく可能性が高いと思う。
結局、しんどい話ができる相手って、軽い話とかくだらない話も気兼ねなくできる人だと思うから。あと、長い時間話すと、どれぐらい話が通じるかとか自分と噛み合うかとかもわかるしね。
でも、時間はめっちゃかかるよ。年単位でかかる時もある。お互い様子を見ながら、少しずつしんどい話をしてみるようにしてる。
橘 なるほど。それって、「一対一で緊張せず話せる機会を作れるか」というのもカギになりそうだね。あとは、「依存先を増やすことが自立」ってよく言うじゃない。この言い方に少し違和感を感じる時があるって言ってたよね。
中村 そもそも「自立は、依存先を増やすこと」という言葉は、小児科医で脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さんが、障害者の自立生活運動の文脈で発言なさっているものなんだよね※1。
人はみんな実はいろいろな物や人に依存しながら暮らしているのだけど、依存先が分散されていることによって一つ一つへの依存を意識せずに済んでいて、これが「自立」の状態。だけど、障害者は健常者に比べて依存できる先が限られてしまっている。だから、自立しようと思ったら、実は依存先を増やすことが必要なんだ、という。
もっとも、熊谷さんは「これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだ※2」ともおっしゃっている。それはそうだと思うんだけど、なんか熊谷さんが言ってた元の意味とはちょっと違うニュアンスでTwitterとかで拡散された感じもある気がしてる。
そのうえで、「自立は、依存先を増やすこと」という言葉自体は、間違っていないというか、もちろんうまくできればそうかもしれないと思う。ただ、依存先を増やしたところで、自動的に一つ一つへの依存の度合いが浅くなるわけではないんじゃないかなと。
例えば、分散先を増やしても、結局そのうちのAさんに80%依存しているなんてこともあるしね。すべての依存先に均等に浅く依存するのはかなり難しい気がする。どうしても依存度合いの偏りが出るよね。
そもそも依存がよくないと言われる時は、「依存症」や「共依存」といったアディクション(嗜癖)、つまり「やめたくてもやめられない」域にまで達してしまい問題を抱えた状態を表す言葉と、日常語としての辞書的な意味での「依存」という言葉が混同されているんじゃないかな。後者の「依存」は本来「頼る」「よりどころとする」というような意味で、それ自体は度が過ぎなければ悪いことではないのに。
※1 自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと | 東京都人権啓発センター
※2 自立とは「依存先を増やすこと」|全国大学生活協同組合連合会(全国大学生協連)
橘 これは次のテーマともかかわりがあるけど、「適切な依存」とは何かという話になるよね。人と付き合う際の心地よい関わり方とか、自分らしくいられる方法とか。みんないろいろ悩みを抱えているけど、そういう自分にとっての解をあまりしっかり考える機会がないんじゃないかな。そして、そういう理想の付き合い方は、実は、あえて考えないとたどり着けないんじゃないかなと思っていて。
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