『チャーリーズ・エンジェル』は「フェミニズム的に問題がある」の問題

文=北村紗衣
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 『チャーリーズ・エンジェル』の映画新作が2月21日に日本公開予定です。『チャーリーズ・エンジェル』といえばテレビシリーズ『チャーリーズ・エンジェル』(1976–1981)に始まる有名フランチャイズで、2000年には映画『チャーリーズ・エンジェル』(2000)としてリブートされ、その続編『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』(2003)も公開されました。2019年版はさらなるリブートとなります。

 私は2000年のリブートを映画館で見て以来このフランチャイズのファンです。テレビシリーズもほとんど見ています。新作も、幸運なことに試写会で見る機会がありました。

 実はこちらの新作『チャーリーズ・エンジェル』はアメリカでは興行的にあまり当たっておらず、評価もよろしくありません。批評でとくに言われているのが、この映画が含んでいるフェミニズム的メッセージが非常に軽薄だ、というものです。

 たしかにこの映画は大変軽薄なのですが、私は試写で映画を見てそこってツッコむところだろうか……?と思いました。今回の記事では『チャーリーズ・エンジェル』はそもそもアホっぽいからこそ楽しい作品なのであり、それ以上のものは要求できないだろうというお話をしたいと思います。

テレビシリーズからして不真面目だった

 ABCで70年代に放送されていたもともとのテレビシリーズ『チャーリーズ・エンジェル』は、匿名の雇い主であるチャーリーのもとで働く3人の女性探偵の活躍を描く作品です。最初はサブリナ(ケイト・ジャクソン)、ジル(ファラ・フォーセット)、ケリー(ジャクリーン・スミス)という顔ぶれですがたまにメンバーチェンジがあり、後のシーズンではクリス(シェリル・ラッド)、ティファニー(シェリー・ハック)、ジュリー(タニア・ロバーツ)というエンジェルも出てきています。

 最初はけっこうちゃんとした探偵ものだったのですが、美女たちがいろいろな変装を駆使しつつ、オシャレに活躍する気楽な作品ではありました。

 そもそも、正体不明の声だけの男性ボスのためにゴージャスな美人エージェント3名が働いているなどという設定はそんなに真面目なものとは言えません。実はコミカルなところも多く、女囚ものに修道女コスプレを組み合わせた悪ノリ展開があったり(シーズン4第6話)、どういうわけだかエンジェルたちが田舎で密造酒メーカー同士の抗争に介入したり(第5シーズン第7話)、シリーズ終盤になるにつれてネタに走っているとしか思えない話も増えるようになりました。はじめからふざけたユーモアのあるシリーズだったのです。

アホっぽさに自覚的な2000年版リブート

 2000年代のリブートは、こういうアホっぽい設定を完全に自覚しており、かつシリーズ終盤のノリをパロディのように強調したものでした。とにかく何もかも過剰でセクシーでキッチュです。とんでもない現実離れしたアクション、下ネタ満載の笑い、頻繁な衣装替え、テンションを上げるためだけに挿入される音楽、臆面もない女同士の友情賛美などをたっぷり詰め込んでいますが、話は全くどうでもいいようなものです。

 私は高校生の時に『チャーリーズ・エンジェル』を映画館で見ましたが、おバカ映画の金字塔である『オースティン・パワーズ』(1997)の女の子版みたいな映画がやっとできたんだ!と思った覚えがあります。

 2000年版のディラン(ドルー・バリモア)、ナタリー(キャメロン・ディアス)、アレックス(ルーシー・リュー)というエンジェルの配役は絶妙でした。というのも、伝統的な意味で美女と言えそうなのはナタリーだけで、あとの2人はそれぞれ個性的で魅力があるものの、古典的美女とは言い難かったのです。

 ディランはゴスっぽい不良娘だし、アレックスについてはヒロインの1人が東アジア系というだけで当時は珍しく、ハリウッド風の美の基準に反していました。さらにナタリーも容姿は美しいのですが、気取りのない性格でちょっと下品とも言えるようなところがあり、親しみやすいキャラクターでした。

 この連載では既に「愛の理想世界における、ブス~夢見るためのバズ・ラーマン論」で、映画のヒロインに不美人と言えそうな女優をキャスティングすることの意味を論じていますが、たぶん2000年版の『チャーリーズ・エンジェル』はこの意味をとてもよく理解している映画です。エンジェルたちは全員くだけた感じで、どこにでもいる近所のねーちゃんのような雰囲気です。

 この、警官でも軍人でも絶世の美女でもない隣のねーちゃんたちが、女の子がやってみたいと夢見ているけど自信がなくてできないことを全部やってくれる、というのがポイントでした。

 さらに、今までの映画によくあったような男性向けのセクシー描写が妙な感じにずらされ、女だけでふざけて内輪ではしゃぐようなノリで描かれているところも新鮮でした。

 いろいろな場面でエンジェルたちがターゲットの男性を誘惑したり、騙したりするのですが、その描き方がユーモラスで、女の子が「あの気に食わないボスに一杯食わせてやれたらなぁ……」みたいなシチュエーションで妄想しそうなものばかりです。

 全体的に2000年版『チャーリーズ・エンジェル』はどこもかしこも過剰でパロディ風です。この、よくある描写をひっくり返したり、やたら盛ったりして通常と違う効果を出す、というのは、先ほどのバズ・ラーマン論で触れた「キャンプ」の美学に通じるものです。

 「キャンプ」は2019年にメットガラのテーマになったので以前よりよく知られるようになっているかと思いますが、これはドラァグクイーンなど同性愛者の文化から強い影響を受けた美意識であり、芝居がかったわざとらしさやユーモア、人工的な過剰さなどを特徴とします。『チャーリーズ・エンジェル』2000年版はとてもキャンプな映画だと言われており、だからこそ今でも人気があると言えます。

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