『ゼロ・グラビティ』アルフォンソ・キュアロン監督
惜しくも(とか言いながら実は全然惜しくないってことをこれからつらつら書くんだけれども)作品賞は逃したものの、第86回米アカデミー賞において最多7冠を達成したアルフォンソ・キュアロン監督『ゼロ・グラビティ』。無重力の宇宙空間を舞台にしたこの作品は、「今までに見たことのないような驚異の3D映像と、サンドラ・ブロック演じる女宇宙飛行士の壮絶な体験がとにかく凄まじい!」と公開前から評判で、一体どんなすごい映画なんだと私も大いに期待して、劇場へと足を運んだのだった。
で、見てみた結果、確かに、冒頭から、映画を見ていると言うより本当に宇宙飛行を体験しているような感覚になる迫力の3D(事実、衛星の破片が飛んでくるシーンでは体を避けそうになってしまった)には圧倒され、完全に無音の世界にひとり放り出されるサンドラ・ブロックの緊張感には手に汗握り、と、それなりに楽しんだ。と同時に、「こんなものに騙されないぞ」という懐疑心も生まれ、なんとも微妙な感想しか言えなかった。
キュアロン監督は、『ハリー・ポッター』シリーズも手がけるほどメジャーな監督なのに、白状すると、不勉強な私は今まで彼の作品を一本も見たことがなかったのだ……。なので今回、これを機に、監督の前作『トゥモロー・ワールド』(06年)を都内の二番館で今さら初めて鑑賞した。この『トゥモロー・ワールド』も、公開当時、衝撃的な長回し(ひとつのシーンをカットせずにカメラをずっと回し続ける撮影法)映像にみな驚き、この技術はすごい! と興奮しながら大騒ぎしていたような作品。
で、見てみた結果、『ゼロ・グラビティ』で感じた疑いが、確信に変わったのだった。
『ゼロ・グラビティ』は、一緒に作業していたジョージ・クルーニー演じる超ナイスガイな上司とはぐれてしまい、宇宙で完全にひとりぼっちになったサンドラ・ブロックが、あらゆるトラブルに巻き込まれ、一度は地球に帰還することを諦めてしまいそうになるも、最後には力強く大地に降り立ち、世界は続いていく。
『トゥモロー・ワールド』は、2027年の近未来が舞台、出産機能を失った絶望的な人類のもとに、奇跡として妊娠した十代の黒人少女を、周りの大人たちが必死で守る物語。
『ゼロ・グラビティ』では、パンフレットによると監督本人もそう説明しているそうだが、あからさまに宇宙船が母体でありサンドラ・ブロックが胎児である、と感じさせる描写があったり、やっと降り立った地球の湖が羊水だと説明してみたり。『トゥモロー・ワールド』では、もろにひとりの少女が世界を救う「母」として世界の希望を背負わされていたり。今どき宮崎駿もこんなに酷い女性信仰描かないよ、ってくらい、何年もかけて開発した超最新のVFXや撮影技術を駆使し、高額な予算を使いながら、やってることがただダサいのだ。
さらに、サンドラ・ブロックには、不慮の事故で子供を亡くした悲しい過去があり、妊娠した少女は黒人の貧困層であり、と、ただの女じゃつまらないわけ。一見ひどく不幸な女が実は崇高な存在だった、みたいなちゃちいドリームを勝手に託されても、なんでお前たち(男)の夢のためにこっち(女)が宇宙で路頭に迷ったり、若くして妊娠したり、体を張って頑張らなきゃならんのだと呆れてしまう。
「偉そうに見えるけど実は無力な僕たち。女の人に助けてもらわなきゃ何もできないんです」という謙虚な姿勢に見せかけて、「でも、だから、そういう女を守ってやってる俺たちのほうがやっぱ立派」というマッチョが、隠しきれずダダ漏れ。そんなに世界を救いたいなら、自分でやって下さい。
もちろん、子供を亡くして不幸な女性も、貧しい黒人の少女も世の中にはたくさんいるだろう。でもその孤独は他人、ましてや男のためにあるわけでは決してなく、なんかすごい映像に取って付けたように合わせる感動ストーリーのために利用されるなんてまっぴらごめんだ(と勝手に代弁しておく)。
こんな映画監督や、日本でも未だに宮﨑あおいに何かを夢見ているような映画ファンは、是非、ビッチな女子高生が実は吸血鬼で、自分に寄ってくる男たちをがんがん喰い殺す爽快映画ミーガン・フォックスちゃん主演『ジェニファーズ・ボディ』(09年)を見て、大いに反省して頂きたい。
と、そんな理由でこの作品がアカデミー賞作品賞を逃したのかはわからないが(多分違うと思うけど……)、どんなに立派な技術を手に入れても、それで映画そのものが面白くなるわではないんだな、と、当たり前のことを改めて痛感させられた作品であった(ただ、ジョージ・クルーニー萌えにはいい映画だと思っている)。