東出昌大の不倫は社会問題か? 無料の娯楽を消費して「怒る」理由

文=安藤俊介
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「GettyImages」より

 今年も年初から不倫がテレビ、週刊誌、ネットで実に賑やかに報じられている。東出昌大さん、杏さん夫妻の不倫が1月に報じられたと思ったら、2月は鈴木杏樹さん、喜多村緑郎さんの不倫だ。ニュースを見ていたら、なんと東出さんの不倫を「社会問題になっている」と報じていた。

 不倫は果たして社会問題なのだろうか。どう考えても不倫は当事者の問題であり、なぜ社会全体の問題としなければいけないのか理解に苦しむ。百歩譲って社会問題とするならば、一体誰が、何を、なぜ、どこで、どのように社会問題として扱っているのか、ぜひ説明してほしいものだ。

 少なくとも筆者が生活をしている社会では、問題どころか話題にすら上っていない。ニュースそのものを知っていたとしても、気にも留めていない。筆者が特別な社会に住んでいるということなのだろうか。あるいは社会問題に鈍感だということなのだろうか。

見るニュースと住む社会の分断

 インターネット登場以前は、テレビ、新聞、雑誌、ラジオといった具合に、選べる媒体が圧倒的に少なかったから、メディアが報じるものを受身的に見たり、聞いたりするしかなかった。

 ところが、今は違う。今、私たちは自分でいくらでも自分が見たい、聞きたいと思うメディアを選べる。その選択肢は数え切れない。

 YouTube一つとってみても、チャンネルの数は膨大である。そして、選択肢には無料のものと有料のものとがある。当サイトWezzyをはじめ、多くのインターネットメディアは無料である。ただ、会員制をとることでお金を払っている人しか見られないメディアもある。

 テレビに取って代わるものといえば、Netflix、Amazonプライムなどの会員制のサービスだ。これらは自ら選び、お金を払わなければ見ることができない。

 先の不倫についていえば、報じているのはすべて無料で見たり、聞いたりすることのできるメディアばかりだ。有料でないと見られない、聞けないメディアではほぼ報じられていないと筆者の目には映る。

 どうも私たちは同じ社会に住みながらも、見ているメディアによって違う社会に住み始めているのではないだろうか。だから、ある社会に属する人たちの間では社会問題となっているといわれているようなことが、ある社会に属する人たちの間ではまったく問題になっていないどころか、そもそもその情報すら見ていない。

 つまり、お金を払ってメディアを選んでいる人たちは芸能ゴシップなどのニュースを見ることがなく、お金を払わずに受け身としてメディアを見ている人たちはそうしたニュースを連日見ているということである。お金を払ってメディアを見る人は、そんなニュースは見る必要がない、あるいはお金を払ってまで見る価値がないと思っているから、有料メディア側もそうしたものを扱っていないのであろう。

 一方でお金を払わずに受け身としてメディアを見る人には、芸能ゴシップなどのニュースのニーズがある。ゆえに多くのユーザーがそのニュースページに食いつき、メディア側は広告収入を得られる。そのためメディア側も進んでそういうニュースを大々的に報じるのであろう。

 有料メディアで本当に欲しい情報だけを選ぶ場合、わざわざ不愉快になるようなものは見ない。ところが無料メディアから情報を得ようとすれば、わざわざ不愉快になるようなニュースを繰り返し見せられることになる。不愉快になるのであればわざわざ見なければよいのだがそれもしないので、自分に関係のないことでいちいち腹を立て、誰かを糾弾せずにはいられないのではないか。

不愉快なものを見れば見るほど、もっと不愉快なものを見せられる

 日本も格差社会になっていると言われて久しいが、格差はお金だけではなく、人の感情にも広がってきていると筆者は感じる。

 今、Googleやキュレーションサイトなどもそうだが、検索結果は自分の趣向に合わせてアレンジされるようになっている。同じ言葉を検索したとしても、全員が同じ検索結果を見てはいないのだ。

 ここまでお金を払うか否かによって目に入ってくるニュースが変わると書いてきたが、結果として無料で利用しているはずの検索結果も個人個人で違うものになるのである。

 無料のメディアが盛んに取り上げる不愉快な情報だけを繰り返し見て、そうした情報について検索していると、必然的に検索結果が同様のもので埋め尽くされるようになる。

 今の世の中、自分が不愉快なものを見れば見るほど、さらに不愉快なものを見せられるという仕組みになっているのである。言い換えれば、自分が怒りを覚えるものを見れば見るほど、さらに怒るものを見せられるという悪循環が生まれやすい構造になっているのだ。

 この傾向は今後ますます強化されていくだろう。隣同士で暮らしていたとしても、見ているニュースが違う、つまりは住んでいる社会が違うということになっていくのである。

 自分が住んでいる社会は穏やかで心温まるものばかりにあふれている社会かもしれないが、隣人が住んでいる社会は怒りにまみれ、問題が山積みかもしれない。ふとしたきっかけで、隣人が自身の怒りを自分に向けてくることもあるかもしれない。

 筆者は「有料の媒体だけを見よう」と言いたいわけではない。たとえNetflixに加入して好みの番組を見ていたとしても、同時に無料のメディアが発信する不愉快な情報も受け身的に摂取しているのであれば、何も変わらないからだ。

 メディアから流れてくるものを受け身で見るのではなく、自分で意識して選んで見るということをしなければ、いつまでも不愉快悪循環から抜け出せない。自分がメディアを見て不愉快になる、頭に来るのは、自分からわざわざそういうものを見に行っているという自覚が必要だ。そこが自覚できなければ悪循環を断ち切ることはできない。

人は基本的に怒りたいと思っている 

 では、どうすれば悪循環を断ち切ることができるかのか。答えは極めて簡単だ。自分からわざわざ不愉快になるようなニュースを見に行かないことだ。読んだら不愉快になりそうな見出しを見てもクリックをしないこと。ただ、それだけである。

 一度、不愉快になるニュースを見れば、関連したニュースが次から次へとあなたを追ってきて表示されるようになる。

 あなたの悪循環が始まる入り口はどこにあるのだろうか。つい、癖で何となく朝起きたら、あるいは通勤途中に眺めているサイトなどはないだろうか。それこそが悪循環の入り口かもしれないのである。

 君子危うきに近寄らずとは言うが、私たちは君子ではないので、自ら進んで危ういものに近寄ってしまう。見れば不愉快になるな、頭にくるだろうなと思ったとしてもつい見てしまう。また、見ては駄目だといわれるほど、それを見たくなるのが人の性だ。

 人はわざわざ怒りたくないと思っているかもしれないが、逆だ。人は基本的に怒りたいと思っている。なぜなら、怒っている間は気持ちが良いからだ。特に正義の名の下に怒っている間は、自分は正しいことを言っていると満足感を得ることができる。

 以前、この連載でも書いたことがあるが、怒りは安価で身近なエンターテインメントとして消費することができる。エンターテインメントだから、結局のところ、怒ることに魅了されているのである。それが悪癖になっているとも気づかずに。

 もちろん、怒ることが癖になっていれば、実生活で良いことなど何もない。日々、怒っていれば疲れ、本来力を使わなければいけないこと、力を使いたいことに時間や労力を割くことができない。

 今の社会、怒りやすい環境に身を置くことも、その逆も自分の選択でできるのである。少なくとも、何を見るのかは自分でコントロールすることができる。

 大げさではなく、自分が幸せな気持ちになれるニュースだけを見続けることだって不可能ではないのだ。

 さて、あなたは今日から何を選んで見るのだろうか。あなたが選び、見るものが、自分が住む社会をつくる選択肢になるということである。

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