
Takashi Aoyama / 特派員 「GettyImages」より
日産自動車元会長のカルロス・ゴーン被告が国外逃亡したことで、日本の刑事司法や人権保護のあり方が議論となっている。一部の論者は欧米水準の制度運用をしなければ、外国から人材が日本に来なくなってしまうと指摘しており、実際、ゴーン被告は日本にいる外国人に対して「(日本は危険なところなので)気をつけるべきだ」という趣旨の発言を行っている。
筆者は、日本が現行の刑事司法制度の運用を続けた場合、優秀な外国人が日本に来なくなるどころか、タチの悪い人材ばかりがやってくる可能性すらあり、日本経済にとって極めて大きなマイナス要因になると考えている。
日本では法曹関係者ですら無意識的に推定有罪
ゴーン被告は逃亡先のレバノンで、日本の刑事司法に対して厳しい批判を行っている。ゴーン被告は、家族や弁護士との接見が制限されたことや、必要な薬の服用が制限されたこと、推定有罪で自白を強要されたと主張しており、日本政府もこれらの事実関係については否定していない。
ネットの反応などを見ると「犯罪者が何を言っているんだ」といった趣旨の発言も多く、以前からわかっていたことではあるが、日本社会では推定無罪という民主主義の基本中の基本となる概念すらあまり認知されていない。
筆者が特に驚いたのが、弁護士など法曹界に属する人の中からも「ゴーン被告が会社を食い物にしてきたのは事実であり、その点は否定できない」などと、にわかには信じられない発言が出ていることである。
ゴーン被告は特別背任などの罪で起訴されているが、「食い物」というのは何を指しているのかまったく不明である。背任のことを指しているのなら、明らかに推定有罪の発言ということになるし、罪状に関係ない話ということであれば、ただの誹謗中傷である。
この発言はおそらく無意識的なものと考えられるが、それゆえに事態は深刻である。法の専門教育を受けた人であっても、現代民主国家における刑事司法について、まったく血肉になっていないからである。
昨年、ゴーン被告の逮捕を受けて行われた記者会見でも同じような光景が繰り広げられた。
会見に臨んだ仏ルノー会長のジャンドミニク・スナール氏には、ゴーン被告に関する質問が集中したが、日本人記者が(おそらく無意識的に)何度もゴーン被告が犯罪者であることを前提にした質問を行い、そのたびにスナール氏が、「民主国家では推定無罪は基本的なルールであり、私自身もその価値観を信条としているので、質問への回答は控えたい」と繰り返し説明していたことが印象的だった。スナール氏が何回説明しても、日本人記者から次々と推定有罪の質問が出てくる光景は異様としか表現できないものだった。
家族に対する価値観の驚くべき違い
このほか、弁護士との接見が制限されるというのは、民主国家では到底考えられない事態だが、日本では弁護士との接見が制限されるのは、当たり前であるとの感覚を持つ人が多い。おそらくだが、逃亡などよからぬことを考える可能性があるので、接見を制限した方がよいという感覚なのだと思われる。
価値観をめぐる根本的な違いが露呈したのは、やはり家族との接見問題だろう。
ゴーン被告は家族に会いたいと申し出たが、その要求は受け入れられず、それどころか「なぜだ」と聞かれたと発言している。このゴーン被告の証言は、おそらく日本以外の多くの国において相当な衝撃だったに違いない。
欧米やラテン語圏、中華圏、イスラム圏など、世界の大半の文化圏では、家族と会いたいという思いは絶対的なものとして理解されている(欧米とは人権の感覚が大きく異なるイスラム圏でも、家族と同居できる刑務所がある)。したがって、家族との接見によって証拠隠滅や逃亡幇助が理論的にあり得るとしても、家族が被告人をかばうのは当たり前との認識が一般的である。
米国では、家族の証言は証拠能力ないと見なされているし、家族が仮にウソの証言をしてもそれは免責される。逆に言えば、家族との接見による証拠隠滅で公判が維持できないようでは、捜査機関としてお話にならないと考えられている。
そのような状況で、家族との接見を申し出た被告人に対して「なぜだ」と聞いたという話は、家族という基本的な価値観ですら諸外国と共有できていないという現実を露呈してしまったといえる。
裁判所が批判されるという驚愕の光景
今回、保釈請求した弁護士やそれを決定した裁判所が批判されるというのも、欧米各国から見ると異様な光景だろう。弁護士は被告人の人権を守ることが仕事であり、裁判所は良心に基づいて判決を下すことが仕事であって、被告人を拘束したり、監視することが仕事ではない。
ゴーン被告は当初、GPSの付いた足かせを装着することを申し出たが、日本にはそのシステムが存在せず申し出は却下されたといわれる。GPSの足かせがあるとほぼ100%逃亡は不可能なので、少なくともゴーン被告がGPSの足かせを申し出た時点では、逃亡の意思がなかったことになる。
ゴーン被告の逃亡に責任があるとすれば、やはり逃亡を許してしまった行政機関なはずだが、こともあろうに裁判所が批判の対象となっているのが日本の現実である。裁判所は人権を守る最後の砦であり、民主国家においては一種の聖域である。本来、軽々に批判できる対象ではない。
直接的な責任がないにもかかわらず裁判所が批判されているという現実を目の当たりにすれば、諸外国の人が、日本には司法の独立は存在しないと考えてしまっても仕方ないだろう。
このように日本は、欧米とほぼ同じ文面の法体系を導入したにもかかわらず、その運用はまったく違ったものになっており、困ったことに日本側にその認識がまったくない。
独裁者が支配する腐敗した国で起こること
こうした司法制度の運用を続けた場合、一部の論者が指摘するように、日本に来ることを躊躇する人材が増えることは想像に難くない。それどころか、筆者はさらに悪い影響があると考えている。
かつてアフリカには独裁者が支配する腐敗した国々がたくさんあった。こうした国では当然のことながら基本的人権は守られず、外国人も権力闘争に巻き込まれた場合には、どうなるのか保証はない。では、こうした国々には誰も諸外国から人がやってこなかったのかというとそうではない。
このような国には、権力闘争に巻き込まれたり、逮捕されることも覚悟した人材がやってくるものであり、そうした人たちというのは、当然のことながら、悪辣なビジネスを行うというのが定番である。つまり民主的な刑事司法を無視し、恣意的な法の運用を行っていると、有能な人材がやってこないばかりか、犯罪者スレスレの人物ばかりがやってくるという結果になりかねないのだ。
この話は外国人労働者にもあてはまる。日本では一部の企業が、外国人労働者を過酷な環境で働かせており、海外の人権団体から奴隷労働であるとの批判が出ている。しかも困ったことに、その温床となっている外国人技能実習制度は、日本政府が主導している。
見方によっては政府が奴隷労働をあっせんしていると認識されかねない事態だが、このような国に優秀な外国人労働者がやってくるわけがない。国内では外国人労働者の増加で治安が悪くなるといって批判する声があるが、治安を悪くするような受け入れ方をしているのは日本人自身であることをまったく認識していない。こうした無自覚的な行動は、グローバル化が進む現代社会では極めて大きなリスク要因となるだろう。