「無能な味方」より悪質で厄介となる「有害な味方」とは何か

文=山口浩
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Getty Imagesより

 「真に恐れるべきは有能な敵ではなく 無能な味方である」ということばがある。企業経営やら軍事やらを語る人たちが好んで使っているのをよくみる。ナポレオン・ボナパルトのことばだと紹介されることが多いようだが、知る限りナポレオンがこう言ったという記録はない。

 似た表現はいろいろ伝わっていて、ドイツの軍人ヨハネス・フリードリヒ・レオポルト・フォン・ゼークトだとかドイツの詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテだとかイタリアの思想家ニッコロ・マキャヴェッリだとかイギリスの政治家エドマンド・バークだとかいろいろいわれるようだが、同様に確たる根拠に基づいたものは見たことがない。まあ「この井戸はその昔弘法大師が」とか「この石に太閤秀吉が腰かけて」とかの類いと考えた方がよさそうだ。

 ともあれ、これほどいろいろな歴史上の著名人のことばとされるのは、これが多くの人にとって「なるほど」と思わせるだけのものがあるからだろう。このことばの力点はあきらかに、「有能な敵」ではなく「無能な味方」の方にある。おそらく誰しも、頭に思い描く「無能な味方」が1人や2人はいるのではないか。

 本来、自分と利害や目的を共有しているはずなのに、実際にやっていることは意味のないどころか迷惑なことばかり、しかも本人は役に立つと思っているから反省もしない、許せない、こんな奴は排除してしまいたいのになかなかできない、悔しい、というわけだ。職場の同僚とくだを巻く居酒屋談義などではさぞかし盛り上がるテーマだろう。

 あまり意識されていないように思われるのだが、インターネットなど現代の言論空間上で展開されている、さまざまなテーマに関する議論の中でも、似たようなことがある。たとえばソーシャルメディアでの議論の中で、自分と異なる意見の人たちの主張をみていると、「いやそんなこと言ってないし」と思うことがしばしばあるだろう(実際、そういう反論をよくみかける)。

 ここでいう「そんなこと」には、たとえばどうみても難癖としか思えない無理筋な主張や卑劣な人格攻撃、仔細なことへの揚げ足とりや粘着、個人情報の暴露や脅迫めいた文言、ヘイトスピーチや名誉棄損、著作権侵害など法的責任の追及やその示唆、偏見や差別的言動、罵詈雑言の類いが含まれる。

 いくらなんでもそんなひどいことを言うわけがない。そもそもそんなことを言ったら効果がないどころかかえって自分にとって不利ではないか。自分と意見や立場を異にする人たちがそうしているのを見たことはあるが、同じ側の人はそんなことはしないだろう。そんなふうに思いがちだ。

 しかし残念ながら、それは多くの場合、まちがっている。どんな問題であれ、ほぼまちがいなく、自分たちと同じ意見や立場で上記のような「そんなこと」を主張している人はいるのだ。それもかなりの数。

ユーザーがクソリプを発信する3つの原因

 ツイッターでよく「クソリプ」という表現が使われる。「クソ」と形容したくなるようなひどい、あるいはどうでもいいリプライをさすことばだが、一定の反響を呼んだツイートにはほぼ不可避的にこうしたクソリプが届く。個人的な感覚では1000RTあたりが「閾値」だが、もっと低いと思う人もいるだろう。いわゆる「アンチ」に粘着されている人であれば、何か発言するたびにクソリプを受けているかもしれない。

 もちろんソーシャルメディア以外にも、さまざまなかたちで同様のひどい情報発信が行われているのだが、ソーシャルメディアは特に、多くのユーザーの発信が連関していくというその特性上、そうしたものに触れる機会が多くなる。

 賛同の意思を表明したければ単にシェアすれば足りるのに対し、反対や批判の意思を表明する場合にはその旨を明確に示す必要があるからだ。しかも、きちんとした反論ができる人はそう多くない。結果としてクソリプのような悪い反応がより多く可視化されることとなる。

 なぜ人は、こうした「そんなこと」を発信してしまうのだろうか。見聞する限り、原因はいくつかあるように思われる。代表的と思われるものを3つ挙げる。

①   単純に議論の仕方を知らない、あるいはケンカとの区別がつかない

 相手の主張に対する反論や批判と相手の人格を切り分ける、主張の説得力を高めるために根拠を示すといったことは、議論を行う際の基本だが、実際にできている人は必ずしも多くない。ふだんはできていても、特定のテーマになると我を忘れたかのように感情的になる人もいるし、売り言葉に買い言葉ということもあるだろう。そもそも「議論」ではなく罵倒したいだけの人もいるかもしれない。他者を敵か味方かに分けて考えたがる二分法思考については前に書いたことがある。

異なる主張をバカにし、敵味方で二分する「ネット世論」の現状

 子どものころ、時代劇が好きでよく見ていた。そこでよく聞いたことばに「火事と喧嘩は江戸の華」というのがある。当時でもすでに古い物言いになってはいたのだろ…

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「無能な味方」より悪質で厄介となる「有害な味方」とは何かの画像2 ウェジー 2019.08.19

②   自分の「正しさ」を疑わない

 「正義」はしばしば暴走する、というのは歴史上人類が何度も経験してきたし今も各所で日々起こっている。問題は2つある。1つは正義と思うゆえに自らの行いへの疑問を持ちにくいということだ。批判されても「だってあいつらが悪いことしてるんだから当然」と返している人をしばしば見かける。もちろん全員ではないだろうが、自分の意見や立場の正当性を疑わない人の中には、まちがっている相手に対しては自分がどんなひどいことを言っても許されると考える人が一定数いるのだ。

 もう1つは、そもそもその「正義」自体が多様であって、そのうちどれが優先されるべきかについての社会的合意が存在しないことが少なくないということだ。自分の「正義」を疑わない人は、その他の「正義」は当然その下にくるものと思っている。自分と異なる優先順位をつける考え方は、多様なレトリックで否定される。

③かねてより恨みや憤りを持っている

 自分がかつて意見や立場の異なる人からひどい目に遭わされ、強い恨みや激しい憤りを持った状態にある人は、ふだんは冷静でも、そうした経験に結びつく問題に関しては冷静さを保てなくなるようにみえることがしばしばある。本来関係ないことでもそうした記憶が呼び起こされ、火がついてしまうのかもしれない。

 その人の個人的な経験は、その人にとってこれ以上ないほど確かなものであって、疑う余地がない。個人的に経験していなくても、身近な人の経験やその問題への自分なりの興味・こだわりが、同様の憤りにつながることもある。そうしたこと自体は人間誰しもあることで、共感を呼ぶことも少なくないが、強い感情に裏打ちされているがゆえに、えてしてひどい行動につながってしまうわけだ。

「有害な味方」を遠ざけ、「有能な敵」と議論を

 自分と同じ主張や立場の人の中にこうした人がいることは、その主張や立場にとって有益ではない。本来、たとえ意見や立場がちがう相手とでも、冷静に議論していく中で、合意できる部分を見出したり、問題のよりよい理解や改善に向けた流れを作ることができる場合は少なくないが、上記の「そんなこと」が蔓延する状況ではそれは不可能となる。「こんなひどいことを言う奴など信用できない」「こいつらと議論するなど不可能。黙ってろ」といった反応を呼ぶからだ。

 そうした仲間の存在は、自分たちの意見や立場自体への反発を招き、むしろ有害となるケースもある。数年前、人種差別的なデモに反対する動きが出てきたとき、その暴力的なやり方に批判が集まったことを記憶している人もいるだろう。人種差別はなくしていくべきで、だから反差別という主張自体には賛同するが、そのために乱暴な(ときには差別的ですらある)言動や行動をするのはやりすぎ、というわけだ。

 結果として生じた「どっちもどっち」的な印象は、一般の人々を反差別運動自体から遠ざけ、むしろ人種差別的な活動に一定の「居場所」を与えることになってしまったように思う。

 同じようなケースはさまざまな問題でよくみられる。肉屋を襲撃した過激なヴィーガンも、地下鉄を止めようとした環境活動家も、街宣車で企業の前に乗りつけ演説と称して大音量で脅迫めいた暴言を吐いた保守団体も、憲法改正反対派を罵倒するツイッターアカウントで炎上マーケティングをしかけようとした公益法人も、結果的に当該行動だけでなく、その背景にある意見や立場自体への反発や忌避を招いた。

 その他さまざま、思い当たる節のある人は少なくないだろう。仮にその意見や立場自体にそれなりの理があるとしても、それが不当な手段を正当化するわけではないのだ。

 私たちはまず、自分と同じ意見や立場をとる人たちの中に、こうした人たちが存在することを明確に意識しなければならない。社会において自分たちの主張や立場をよりよく理解してもらいたいと考えるなら、こういう困った人々に対してどういう態度で臨むかを、今後より真剣に考えなければならなくなっていくだろう。「真に恐れるべき」が単に「無能な味方」であった時代はまだ「まし」だった。現代において「真に恐れるべき」は、こうした「有害な味方」なのだ。

 冒頭のナポレオンの(ものとよくいわれる)セリフのバリエーションの1つでゼークトのバージョンは「無能な働き者は銃殺するしかない」という。「有害」の方がなお悪いのは当然だが、もちろん、さすがに銃殺するわけにはいかないし、排除することも実際にはなかなか難しいだろう。

 かといって、社会において自分たちの主張や立場をよりよく理解してもらいたいのであれば、居酒屋談義でこうした「有害な味方」をコケにするだけで済ますわけにはいかない。それが社会にとって重要な問題であればあるほど、その「害」を軽減する努力が必要となる。自分と同じ意見や立場だからといって、暴言その他のよろしくないふるまいを野放しにするのはもうやめて、それはかえって「有害」だとはっきり言わなければならない。

 それすら難しいなら、せめて「有害な味方」からはできるだけ離れるべきだろう。「有害な味方」に目をつぶって共に気勢を上げるより、「有能な敵」とていねいな議論を重ねていくほうが社会全体のためになると信じようではないか。

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