手を取りあって考える。戦争協力問題、ヘイトスピーチの問題……/志田陽子×山本浩貴

文=住本麻子、カネコアキラ
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 2019年はあいちトリエンナーレの開催および「表現の不自由展、その後」の中止など、表現の自由について大きく考えさせられる年となった。「表現の自由」とは何なのか、そもそもどうやって考えればよいのか。表現とは、自由とは。

 最後の話題はアートの戦争協力からヘイトスピーチの問題にわたった。表現の自由を美化しない、お互いの分野への提起と返答がくり広げられる。

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志田陽子
武蔵野美術大学 教授(憲法・芸術関連法)、博士(法学)。「表現の自由」および芸術をめぐる憲法問題、文化的衝突をめぐる憲法問題を扱っている。 主著『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)、『表現者のための憲法入門』(武蔵野美術大学出版局、2015年)など。

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山本浩貴
1986年千葉県生まれ。2010年一橋大学社会学部卒業。2018年ロンドン芸術大学博士課程修了(PhD)。2018年までロンドン芸術大学TrAIN研究センターに博士研究員として在籍。韓国・光州のアジア・カルチャー・センター(ACC)でのリサーチ・フェローを経て、2019年まで香港理工大学デザイン学部ポストドクトラル・フェロー。2020年より東京藝術大学大学院国際創造芸術研究科助教。

プロパガンダとヒーロー

志田 前回は芸術が排除される例についてお話ししましたが、逆に動員される例ではどうでしょう。『現代美術史』(中公新書)では最後に戦争画を扱っておられますね。最後の最後で、もし戦争画を描いてくれといわれたとき、その問いにはなかなか答えられない、と。そういう深い問いで終わっておられると思うのですが、いままさにちょっとそれが現実味を帯びた時代になってきてしまいました。

たとえばいま自衛隊が海外にも派遣されています。調査目的と言っているけれど、どう巻き込まれていくかわからない非常に不安な状態です。そんななかで自衛隊員を獲得するために、アニメの絵などを駆使した広報がなされています。魅力ある絵をかける作家がポスター作成に起用されるというような可能性はあると思うんですね。戦争画とは少し違うかもしれないけれど、誘導路として芸術の魅力を発揮してほしいと作家が頼まれる可能性は出てきてるなと思います。それに対する答えは、自分には出せないと、作家の会田誠さんもおっしゃっています。山本さんも書籍の中で問題提起をなさっていると思うのですが、いまのお考えを教えていただけませんか。

山本 人を引きつけるイメージの力って本当に強いと思います。たとえば献血なんかに若い人たちが興味を持ってくれるようなポスターを使うことでいっぱい集められる。それによって救われる命がたくさん増える、といった使い方もできる一方で、『敵の顔』(1986年)で作家のサム・キーンが分析したように、プロパガンダのポスターとして利用することもできるわけです。たとえばアメリカ兵を怪物みたいに書くことによって「あいつらは殺してもいいんだ」という雰囲気をつくることもできる。コインの裏表というか、芸術の持つ強さと危うさです。

会田さんが言っていたのも、僕が考えたのも、現代の立場から「あのとき戦争に加担してた人たちはみんなバカだった」と他人事で済ますことに対する警鐘です。むしろ歴史を細かく見れば見るほど、流れというのは個人がそんなに簡単にレジストできるものではないということがわかります。そこは常に悩みつつも、抵抗していく必要がある。でも自分には易々と抵抗できると信じこんでしまうことはやっぱり怖い。意図的に避けようとしても気づかないうちにそちらへ流れていくこともあると思います。

志田 凄いヒーローが立つことをみんな期待してしまうけどそれではいけない、という話ともつながりますね。たとえばあいちトリエンナーレ問題でも、その問題が見て取れると思います。

芸術監督に選ばれた津田さんは、全部仕切りきれなきゃいけないのに中止に追い込まれた、ということで、大変なバッシングを受けてしまった。津田さんは、芸術家としての専門家ではなく、ジャーナリストとして芸術に強い関心があって、せっかくそのチャンスをもらえたんだから、芸術の中でも特にマイノリティ性の強い不自由展をやってみようという思いを持ったと聞いています。

電凸などの予期せぬ事態については、対処しきれないところがあったかもしれないですが、それをみんなで支えようというよりは、「ヒーロー失格」のバッシングが起こった。でも津田さんという「普通の生身の人間」が「表現の不自由展」を入れようと発案したことの価値は大きい。これが不完全さを抱えていたとしても、「やった」ということを評価して次につながってほしいという気持ちが私にはあります。法律家としてもっと丁寧に読み解いて言えば、芸術監督が責任を持つのはこのライン、電凸に対する対処は警察マター、という責任の所在の分散化が必要だと思いました。その責任の分散を、途中からアーティストたちが率先して引き受けていったことは、大変に価値のあることで、実践から生まれた前例として尊重すべきだと思っています。

山本 ケアの倫理の中に、本当の自立は依存先がたくさんあることだというものがありますよね。つまり、このことについてはこの人に頼ろう。その人が困っているときは自分や他の誰かが支えようというものです。

津田さんはすごく才能がある人だし、ジェンダーバランスを考慮して参加アーティストの男女比を5:5にするといった取り組みは彼にしか打ち出せなかったと思います。一方で彼がもっとほかの人に依存できることはあったかもしれない。もちろん彼だけが問題じゃなくて、美術作家の側からも提案できることもあったと思うんですよね。

表現の自由とヘイトスピーチ

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志田陽子さん

山本 あいちトリエンナーレでは電凸が話題になりましたが、ヘイトスピーチに関して、ぼくは実効力のある法律を立てたほうがいいと思っています。さっきの比喩でいうと、表現の自由のテーブルがなりたつのは、ここに座っている人がいくらぼくと違う意見でも構わないのだけれど、ナイフをもって僕を殺しにかかってくるようなことはあってはいけない。これが最低限のルールですよね。

「意見の異なる人を暴力的に排除しても構わない」という看過できない思想を持っている人を議論の中にいれるのは間違いだと思っています。右左にはっきり分かれる問題じゃないかもしれないけれど、排他的なナショナリズムをもったような人たちを、「対話は大事ですよね」といって同じテーブルに座らせることができるのは安全な場所にいるマジョリティの特権だと思うんです。マイノリティが自分を刺しに来るかもしれない人を、どうぞ座ってください、対話しましょうと言えません。そのような場を設けることにははっきり反対です。多様な意見は認めるけど、それは右とか左とか関係なく、許されない意見はあります。その人たちに対しては戦わないといけない。それは法律でやるべきだと思います。

日本の市民社会だけとはかぎらないけれど、少なくとも日本の市民社会はそれを法律なしで達成できるほど成熟していないとぼくは考えています。いろいろな意見をもつのもいい、でもいきなり暴力的な手段を用いて、他者の意見表明を止めにかかってくる人を許してはいけない。このルールが成り立たないかぎり、テーブルは成立しない。そのためには、法律が番人として機能する必要がある。特にヘイトスピーチの問題については、解消法ができたことは大事な一歩だったと思いますが、罰則のある法律にするべきだったというのがぼくの意見なんです。

志田 わたしの場合は「表現の自由」論者なので、ちょっとややこしい議論になりますが……。まずは批判と排除を理論的に分ける必要があると思っています。排除というのが、いま山本先生がおっしゃった、そこに存在させないことにしてしまう力ですね。これをやってしまうと思想の自由市場が成り立ちません。「表現の自由」の自己矛盾、自己破壊になるからです。ただあれもこれもヘイトで、不愉快なものを全部ヘイトといいあってしまう現象が今回、あいちトリエンナーレで起きてしまった。これは歯止めをかけなくてはなりません。

「平和の少女像が日本人へのヘイトだ」という言説がネット社会に広がってしまい、名古屋市長もそれにのっかってしまいました。あれをヘイトと言い出す人がでるとなると、ヘイトスピーチという概念が無限に広がってしまう。まずヘイトスピーチの定義を絞り込んで、共有しなければなりません。

「あれもヘイトこれもヘイト」に持っていかずに、相手を社会から、または表現活動のテーブルから叩き出すような、排除言論はだめだという話をしていかないといけない。当然暴力や脅迫によって叩き出すのは一番やってはいけないことだということは、はっきりさせなければいけません。

だからヘイトスピーチにははっきり反対しなければならないのですが、刑罰を用いるのは最後の手段です。表現に対してなにか規制をするときは、ほかにもっと緩やかな手段があるならばそちらを取る、という原則があるんです。だからもしヘイトスピーカーが「私達はやっちゃいけないことやっていたのか」、と自覚して、ヘイトスピーチが消えてくれたなら、罰則まではいらないんです。でも現実問題として、消えないんですね、全然。

ここにおそらくヘイトスピーチと通常の差別言論の違いがあるように思います。差別言論のかなりの部分は気づくとやめるんですよ。気づかずにいたが、それは失礼になるとわかったらやめられるんです。

たとえば、かつては社会的地位のある人でも、かなり平気で「バカチョンカメラ」といった言葉を使っていましたが、その人たちも理屈を説明すれば、「これを言えばリスペクトされない」と思ってやめます。一方で、「相手が傷つく」とわかると勢いづくのがヘイトスピーチです。いじめと同じです。気づかせることに意味がないとなるともう強制力で止めるしかない。つまり刑罰を使うしかない。それを確認する段階として、まずはそれよりも優しい、気づきを促す理念法で対処するというステップが必要だったと言えます。

山本 たとえばもし市民社会において、ヘイトスピーチはおかしいという人がほとんどで一部の極端な人たちがいるというだけなら、それは法律の出る段階ではないと思います。でも特に2010年に入ったあたりから状況はひどくなっている。どちらかというと極端な人がひどくなっていると言うよりは、中立を装った人たちが、「言っていることはわかるよね」と言い出して傍観するようになった。そうした人たちのパイが増えている気がしていています。そうなったときに市民社会がブレーキとして機能しないとなるとマズイ。

志田 去年、嫌韓ブームがひどくなりましたが、そのことと組みあわせると確かに危険性が増していると思います。市民社会の全体が危険な方にずれはじめたときに、法律が働かなきゃいけないという局面は、世界の紛争地域などを見ると、確かにあります。日本でも、韓国をバッシングすればメディアは儲かるといった安易な娯楽や憂さ晴らしの段階から、より危険な方向に社会が向かいかけたのが昨年。そして感染症と外国人差別が簡単に結びつく現象が世界中で起きているのが、今、この3月ですね。

韓国からの留学生や就労者といった人々の不安も、深刻なものになってきています。ヘイトスピーチに対しては、実情に即した地域レベルでの対応、たとえば川崎市の条例など、現実的な被害状況を抱えている自治体が一歩踏みこむというのは、一定の条件を満たせば憲法違反ではないと私は思っています。「表現の自由」は、「なんでも自由」の自由絶対主義ではなく、「その規制がどうしても必要なのか」「規制が必要だとしても、もっと自由を制約せずにすむ手段はないか」「本来のまっとうな表現が巻き込まれたり萎縮したりはしないか」としつこく問う、問い続ける理論なんです。

山本 なるほど、原則は重んじつつも条例レベルでの罰則は考慮に入れるべきとのお考えなんですね。このたびはお話しできたことで考えさせられるところが多くありました。勉強になりました。ありがとうございました。

志田 こちらこそ、ありがとうございました。

(企画/住本麻子・カネコアキラ)

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