弱い男たちが渋滞する「自己責任社会」時代の男らしさについて

文=原宿なつき
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自己責任論に縛られる男たち

 「勝ち組・負け組」「格差社会」という言葉に象徴されるように、平成から令和にかけて、世代間・個人間の経済格差が拡大していることを肌で感じます。みなさん。不安を感じていませんか? 私は不安です。基本的には呑気に生きているのですが、ふと夜中に「このまま仕事を順調に続けていくことができるのだろうか。年老いたときには、ホームレスになって猫しか友達がいなくなるのでは……」といった不安に苛まれます。

 2019年、「12年勤務して手取り14万。日本終わってますよね」というツイートを晒し上げた堀江貴文氏の「日本が終わってるんじゃなくて、お前が終わってるんだよ」という発言が話題になりました。あー、だとすると、「終わってる人たちで構成されてる日本、やっぱ終わってる」ことになりますね。

 日本は男女の賃金格差が激しい国(※1)であるため、「女性の貧困」という言葉が各種メディアで取り上げられるなど、女性の貧困、シングルマザーの貧困、それに伴う子供の貧困は大きな問題となっています。ですが、だからといって男性なら全員経済的に豊かになれて安心して暮らせる、という時代でもありません。

※1性別による賃金格差の現状:正社員であっても、男性を100とした場合、女性は75の賃金しか得られていない(男女共同参画白書 平成30年版 より)

 男性の間でも経済的な意味での「勝ち組・負け組」がきっぱりと別れ、少なくない数の男性が、経済的にも苦しい立場に立たされています。前回、「男性は大黒柱になれるくらいの収入を得ておくべき」「仕事の価値=自分の価値」という思い込みを抱えて苦しむ男性たちのことを書きました。「負け組」を自認する男性の挫折感や喪失感は、いかばかりでしょうか。

 明らかな格差が存在し、市民が分断されていく中で、「男らしさ」の内面化によって男性自身が苦しんでいるという現状は確かにあるはずです。この状況をもっと知るために、2020年2月21日に往来堂書店にて開催されたイベント『田中俊之 × 藤井達夫 トークショー 「男である」ことを止められない男性たちとその事情』に行ってきました。

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田中俊之
1975年生まれ。2008年博士号(社会学)取得。武蔵大学・学習院大学・東京女子大学等非常勤講師、武蔵大学社会学部助教を経て、2017年より大正大学心理社会学部准教授。男性学の第一人者として、新聞、雑誌、ラジオ、ネットメディア等で活躍している。

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藤井達夫
1973年生まれ。2005年に早稲田大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程退学(単位取得)。現在、早稲田大学大学院政治学研究科ほかで非常勤講師として教鞭をとる。近年の研究の関心は、現代民主主義理論。

「自分で」勝ちにいくしかない

 男性学の研究者である田中先生と政治学者の藤井先生が、「二人の学者のおっさんが『男である』ことを手掛かりに、日本社会の生き辛さの原因を抉り出す」。藤井先生による「なぜ男らしさから降りられないのか?」という問いかけから、スタートしました。

 藤井先生は「自己責任社会」に言及し、「『あなたがそうなっているのは自己責任ですよね』言われる社会、つまり、自己責任だと責められるリスクを感じながら戦わなければならない、不安をモチベーションにする社会だからこそ、男をおりられないのでは」と指摘。私はこれをとても興味深く感じました。

 藤井先生の著作『<平成>の正体 なぜこの社会は機能不全に陥ったのか』(イースト・プレス)では、「自己責任論の正体」について以下のように述べられています。

<平成の社会では、ワーキング・プアの問題や貧困に関する問題が社会問題として提起されるたびに、唱えられたのが自己責任論であった。あなたが貧困状態にあるのは、あなたの選択の結果であり、その状態やそれに伴う苦境の責任はあなた自身にある。だからーーこの論理展開が重要なのだがーー他人に頼らず、ましてや政府に頼らず、自分の力でなんとかしなさい、できなければ責任を取って耐え忍びなさい、というわけだ。なぜ、「だから」という順接に続く一文が重要かといえば、そこにこそ自己責任論の本質があるからである>(P.71)

 ある人の行為選択とその結果に、どれほどの因果関係があるのかを正確に知ることは不可能です。にも関わらず個人に対し、「他人とか国に迷惑かけるなよ」と圧力をかける言説、それが「自己責任」です。そういった意味で、「自己責任」は新自由主義を推し進めるために有効なキャッチフレーズでもありました。

<自己責任論の問題点は何か。それは、社会問題を個人の問題にすり替えてしまうことで、現在の社会の仕組みが生み出す集合的な問題でもあることを隠蔽してしまう点にある>(P.73)

 冒頭に引用した堀江貴文氏の「日本が終わってるんじゃなくて、お前が終わってるんだよ」というツイートは、まさに、社会にある問題から目を背けさせる効果のある言葉だった、と言えるでしょう。

 何か困ったことが起こっても自己責任だと責められる社会において、たとえ「負け組」となってしんどくても、「自分が負けているのは社会の仕組みがおかしいからだ!」と追及することは困難です。ひたすら「自分で」勝ちにいくしかない。じゃあ、それでも負けてしまった男性はどうなるのでしょうか?

 自分を強いもの、大きなものと同化することで自尊心を保ったり、より弱者(でいて欲しい人)を叩いたりすることになるのではないか、と思います。前述の堀江氏のツイートに賛同する人たちのなかには、強者とは言えない男性も少なくないように見えました。

ほとんどの人は勝ち続けることができない。

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「GettyImages」より

 勝ち組・負け組という言葉や格差の広がりに従って、自分は勝っている方でいたいという気持ちや、負け組になりたくないという不安が膨らむこと、また一時的に強者と同化することでなんとか自分のプライドを保とうとすることは、自然かもしれません。

 私がある女友達から聞いたエピソードは強烈でした。友人のA子が参列した結婚式は、男性がいわゆるハイスペだらけだったそうで、そこで男たちは次々に自分の職業について語り出したと言います。

 ひとりパイロットの男性がいたそうなのですが、A子が「国内線ですか?」と聞いたとき、彼はこう答えたそうです。「国内線ですけど、国際線と給料は変わらないから」と……。聞いてねー!!! どうでもいいわ! と思ったと同時に、「彼にとって、自分がどれくらい稼いでいるか、他の男性に勝っていると示せるか、がとても重要な問題なのだ」と思い至りました。彼は今後、出世できなかったり、リストラされたり、病気や事故で働けなくなったりしたら、どうなるでしょうか。勝てなかったとき、どう思うでしょうか。

 イベント中、藤井先生は「一時的に勝ったとしても、そこで人生は終わらない。そもそも勝ち続けることなんてありえない。それは新自由主義の嘘だ」と言い切っていました。

 「必死で働いて勝つ・稼ぐことを目指すこと=悪」ではもちろんありませんし、「男を降りる、なんて考えられるのは余裕がある人の考え。生きるために必死で働かなければならない」という男性は多いでしょう。ですが、勝ち負けだけに固執しても、勝ち続けられる人はほとんどいません。このことは念頭においておくべきでしょう。自分もきっと負ける、弱者になる、とリアルに想像できたなら、他者に対しても「お前が負けているのは自己責任だ」などとは言えなくなるはずです。

自立を目指すより関係を深めて

 他方で、田中先生はまず「フルタイムで働いて妻子を養うことが普通とされている現代だが、人々が普通と考えていることは、もはや普通ではなくなっている。しかし、イメージと現実のズレに気がついていない人が少なくない」と指摘しました。

 時代は変わり雇用は不安定なのに、「男ならフツウ、これはして当然だよね(ex定年まで働いて、妻子がいて……)」というイメージがアップデートされておらず、「望み薄なものに対して、あれがフツウだから男ならそうしないと」という気持ちを持ち続けている。これでは辛くなるのも当然であり、田中先生は「フツウのイメージを変える必要性」を訴えます。

 男であることに起因する生き辛さを解消するために、男性はどう変わればいいのでしょうか。田中先生は「仕事や経済力における勝ち負け以外の価値の軸を見極めることが大切」だと言い、同時に「困ったときに助けを求める力」を養うことも必要だと述べました。

 日本では男性の自殺率は女性の2倍です。この数字の差には、ヘルプを求められない男性が多いことも関係していると見られます。田中先生が市民講座で授業をしていたとき、子育て中の女性に「息子がアグレッシブじゃないんです」と相談されたことがあったそうです。その女性の中には「男とは、アグレッシブである方がいい」という思い込みがあったのかもしれません。

 そういった周囲の思い込みによって、多くの男性は「男の子なんだから、しっかりしなさい。まだできるよ、泣いちゃだめ」と育てられてきました。誰かに頼っていい、泣いてもいい、助けを求めたほうがいい、と教えてもらえなかったのではないでしょうか。「その子自身としてではなく、男として育てようとする」のが、当たり前になっていたとも言えます。

 藤井先生は「自立するのが男だと思っているのは、中二病である」と断言。「男たるもの自立して一人前。インディペンデントでなければならぬ」という考えが、男性が周囲に助けを求められずに孤立していく一因であると指摘しました。「そもそも人間は相互依存的な存在。完全に自立するなんてできないしする必要もないのだから、関係を深めていくことこそ理想では? そう考えることで僕は楽になった」という話には、頷くばかりでした。

 「自立より、関係を深めていくことこそ理想」という考えは、男性だけではなく、女性にも有用なものではないでしょうか。今を生きる女性は、「手に職を」「専業主婦より働いて社会貢献や自己実現を」と言われて育った人も多く、しかし現実に一人で自立するだけの職に就いたり仕事で自己実現したりは容易なことではありません。自分が立派に「自立」をしているとは思えず、引け目を感じてしまっている人もいるでしょう。

 「関係を深めていくことこそ理想で、それこそがその人の価値になる」と考えることで、生きやすくなる男女は多いのではないか、と思いました。

そうはいっても、男がうらやましいこともある

 「男らしさ」から降りられないことによる男性の生きづらさ。田中先生と藤井先生のトークを聞いて深く納得したところは多々ありましたが、ただ、まだ自分の中で解決できないモヤモヤもあることに気が付きました。

 男性学に対して、上野千鶴子先生による「(男であることを降りられないのは)そうはいっても、男であることで利益を得ているからでは」という批判があります。これについてイベント中に田中先生は、「男女平等を目指す上で、よい批判とは言えないと思う。なぜなら、男性が一定の支配的地位を占めている、というのは現実とは違うからだ」とおっしゃっていました。

 実際、支配的地位を占めている男性はごく一部です。ここまでさんざん書いてきたように、弱い男性、負けている男性は大勢いるし、既得権益が「男性みんな」に平等に与えられているかといえばそんなことはありません。

 でも一方で、今の世の中であらかじめ決められている「男」と「女」の性別による地位のようなものはやっぱりあって。以前書いた「女は男を立てましょうね」もそうですし、結婚で女性が改姓する慣習もそうです。

 藤井先生の「結婚するときに、自分は長男、相手は長女だったけど、自分の苗字にするのは当たり前だと思っていたので、喧嘩になった」というエピソードを聞いて、私は「めっちゃうらやましい……」と思ったのです。私は結婚後の苗字について「自分の苗字にしてほしい」と彼氏に言うとき、ものすごい勇気が必要でした。現在も話し合い中ですが、両方の親から、「男性側の苗字にしてほしい・したらいいじゃない」と言われています。

 苗字の場合は、別姓と同姓、両方選べるようにしたら問題はなくなるわけですが、たとえば家事・育児の分担についてはどうでしょうか。家事・育児をするよりも、外で働いている方が得だと思っているから、苦しいながらも「男は仕事・女は家庭」という役割分担から降りたくない、と思っている「普通の男性」もいますよね。

 一方で、某ひろゆきさんのインタビューでも物議を醸したように、「女のほうがお得(ただし可愛い子に限る)」「専業主婦は働かなくていいから楽」「女は重いモノを持たなくていいしデートでカネも払わなくていいしレディースデーもあってずるい」と思っている男性もいるでしょうから、互いに嫉妬と羨望があるのかもしれません。

 「男らしさ」「女らしさ」から離れて、その人自身を尊重することが当たり前になれば、性別によって扱い方・扱われ方が変わるということもなくなると言えるでしょうが……「尊重する」が「特別扱いする」と同義であるかのように使われる場面も多々ありますし、なかなか難しい問題です。

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