3年前のある日、突如、両目の視力を失った石井健介さん。緊急入院後、2カ月近くの検査と治療を行うが、原因ははっきりとせず、治療の効果はほとんど出なかった。
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原因不明の失明。ある朝突然に僕は視力を失った
新宿のバスターミナルで、私は今回の取材相手を待っていた。千葉県館山市から長距離バスで取材を受けにきてくれるというその人は、目がほとんど見えないという。…
診断名は、神経系の難病「多発性硬化症」。 近くのものがかろうじて認識できるくらいの、濃く暗い霧がかかったままの世界の中で、絶望し、死ぬことも考えた。
退院後も、家の中でも自由に動き回れず、家事をすることも3歳の娘とこれまでのように遊ぶこともできなといと落ち込んでいた石井さん。明るく子煩悩だったパパが急にふさぎ込むようになり、娘は傷ついた。「前のパパに戻って」という娘の言葉に我に返った石井さんは、家族や周囲の人の助けを借りながら、再び人生を歩き始めていくことを決意する。
3歳の娘に見られた変化
「目が見えなくても子どもとできる遊びってなんだろうと考えて、そうだ!と。大好きなジェームス・ブラウンの曲を大音量でかけて、和室で娘と汗だくになるまで踊りまくったんです。これがめちゃくちゃ楽しかった。音楽にのってダンスをすることなら見えなくてもできるし、娘と手をつなげるから楽しさも伝いあえる。そうか、こういうことならできるんだって気がついたんです。他にも、娘が僕の体に乗ってバランスポーズを決めてから、大声で妻と息子を呼んで見てもらう遊びとか(笑)。そうやっていくうちに、娘が『目は見えなくなっちゃったけど、パパ、楽しそう』って言ってくれるようになりました」
仕事に復帰する目処はついていなかったが、家の中のことをまた自分でできるようになりたいと、少しずつ家事も再開した。やがてアパートの下のゴミ捨て場まで、ゴミを捨てにいくところから初めて、石井さんは少しずつ家の外にも出るようになった。恐る恐る階段を降りる石井さんに、娘は後ろからこう声をかけた。
「パパ、道路に出ちゃダメだよ!」そして小さな手で石井さんの手を繋いでくれた。
「ハッとしましたね。今まで僕が娘に、かけていた言葉を、今、彼女が僕に伝えてくれている。手を繋ぐのもこれまでは僕が娘を守るためだったけど、今は幼いなりに僕を守ってあげようって思ってくれているんだって。
思えば娘は、入院中もトイレに行く僕に付き添ってくれたり、窓の外の風景を説明してくれたりしていました。僕の目が突然見えなくなったということを幼いなりに理解して、そして力になりたいって思っていたんですよね。娘がこういうことを自然にできるようになったなら、見えなくなった自分の存在が彼女にいいことを伝えられているのかもしれないって思えるようになりました」
“障害者”のレッテルを自分に張るようで白杖を持つことを躊躇していた石井さんだったが、この時、子どもたちの保育園の送り迎えをまたできるようになりたいと、白杖を持つことを決めたという。
生活を整えるため首都圏から南房総へ
退院後ほどなくして、石井さん一家は当時住んでいた首都圏のアパートを引き払い、千葉県館山市の実家に身を寄せることになった。
「たまたま、以前住んでいた家を大家さんの都合で急に引き払わなくてはいけなくなって。見えない状態で物件探しをするのは困難だったし、まだ僕は自由に動ける状態じゃなかった。妻は息子の育休がまだ7カ月くらい残っていたから、療養も兼ねて実家に戻ることにしたんです」
実家は祖母が存命の時に完全二世帯住居になっていたため、互いのプライバシーも確保しつつ、幼い子どもを抱えて生活を取り戻す夫婦のために両親は助けにもなってくれた。慣れた家の中なら見えなくてもそれほど問題なく動ける。歩いて数分で広く穏やかな海に出ることもできる。石井さんは、今後の生活における不安を少しずつ手放していった。
「仕事に戻れないことで最初は経済的な不安もあったけど、夫婦で話し合って、ある時から考えても仕方がないから悩むのはやめようと思うようになりました。実家だから家賃はかからない。妻も育休中だけどフルタイムの看護師だからまた仕事に戻れるし、館山で住むにしても転職はそれほど難しいことではないとわかっていました。難病指定である多発性硬化症という診断を受けていたので、障害者手帳を申請し、医療費の保障や障害年金を受給できることにもなった。あとは家のことを僕ができるようになれば、なんとか暮らしてはいけるだろうと」
いつか「できないことを考えるんじゃなく、できることを見つけて」と妻に言われたように、また見えなくなる前の自分がそうだったように、石井さんは、自分にできること、やりたいことの方を見つめることにした。
「こうなった以上、もう楽しいことやりたいことだけやっていこうって決めたんです」
行政の福祉課から紹介された事業所に連絡を取り、白杖を使っての歩行訓練士に来てもらうことになった。3カ月かけて少しずつ慣れて行こうと言われ、いざ訓練を始めると、その上達ぶりに、訓練士は驚きを隠せなかったという。
「『3カ月前に突然見えなくなったって本当ですか?』って疑われて(笑)。中途の視覚障害でここまで飲み込みが早い人はいないと言われました。そもそも突然視力を失うことに絶望し、引きこもりになってしまう人も少なくないそうなんです。でも僕はその時にはもう、また子どもたちの送り迎えがしたいとか、東京に行きたいとか言っていたので(笑)。3カ月かけて行う予定の訓練も、『石井さん、もういいですね』って4回で終わりました」
体の声に耳を傾ける大切さ
死にたいとまで思っていた石井さんが、なぜそんなにも早く前向きさを取り戻し、歩行訓練もこなせたのかと驚く人もいるだろう。その大きな理由のひとつが、彼の体への向き合い方にあった。
石井さんはPRなどの仕事をする傍ら、クラニオセイクラル(頭蓋仙骨療法:ごく繊細な力で施術者がクライアントの身体に触れることにより、その人が本来持つ自然治癒力を促す手技療法)というボディセラピーの施術者としても活躍していた。
「もともと体や健康に関心があって、仕事を通じて知り合ったクラニオの先生の手伝いをしていたら、『あなた、向いているからやってみたら』と言われたんです。お金をもらうなんて最初は考えていなかったけど、あるアパレルのイベントで施術をすることになったんです」
実は私が最初に石井さんに出会ったのも、アパレルのショップ内で行われていた10分間の施術を受けたからだった。触れるか触れられないかの軽さでクライアントの腕や肩に触れるだけのセラピーだが。たった10分で、頑固な肩こりと首の痛みが少し和らぎ、体が軽くなった。「上手に力が抜けていますよ」とその時石井さんは褒めてくれたのだ。
足の指先から、体の内側、呼吸、背骨の位置……体の状態を一つ一つチェックしていく「ボディスキャン」と呼ぶ誘導瞑想も、当初石井さんはセラピーのなかに取り入れていた。普段意識をすることがない体の細かい部位に意識を向けることで、自分自身の内側への集中力が高まり、外的な刺激や感情から距離を置くことができるというものだ。石井さんは、視力を失い入院中のベッドにいる時に、このボディスキャンを自分に行ったという。
「頭で考えたら不安なことばかりだけど、あえて体の部位に心を向けて呼吸を整えていく。そうすると実際に心が落ち着くのがわかりました。いわゆるマインドフルネスですね。同時に、泣いたり、落ち込んだり、イライラしたりという感情も全部出しきることにしていました。でもその感情はずっと続くわけじゃない。それがわかっていたから、絶望にとらわれず早く立ち直れたのかもしれません」
自身の身体感覚を認識する能力に長けていたことも功を奏した。暗闇でも、自分の身体の状態をわかっていれば、背筋を伸ばしてまっすぐに足を踏み出すことができた。石井さんは、社会復帰を目指し、訓練士に紹介された四ツ谷にある視覚障害者のための職能開発センターに、高速バスで通うことにした。
「見えないのに一人で都心に行くなんて言ったら家族は心配したり反対したりするものだと思いますが、妻は『行けるでしょ、行ったら?』という感じ(笑)。初回だけは付いてきてくれたんですが、途中で別れて待ち合わせ場所に僕が一人でたどり着いても全然感動してくれなくて。『すごいでしょ』という僕に『別に? できるって知ってるもん』と答えていました。ああ、この人は本当に信頼してくれているんだなって改めて思いました」
視覚障害者になったからこそ得られた仕事
職能開発センターでは、視覚障害者の人たちの就労移行支援等を目的として、音声パソコンの入力などの講義を受けた。だが、石井さんはそこで就職を斡旋されることを望んではいなかった。
「視覚障害者としてパソコンの使い方などを学べたのはとてもためになりました。ただ僕は自分が会社勤めに向いてないことはわかっていたので、自分でまた仕事をしたいと思っていたんです。ちょうどその頃、以前の仕事仲間が『見えなくなってから感じたことや子育てで気づいたことなどを話してくれないか』とお話会を開いてくれたんです。驚くことにたくさんの人が来てくれた。ああ、こういう需要があるならこの経験を話したり役立てたりしたいなという気持ちもありました」
そのイベントに参加した人からのつながりで、ある一人の女性が石井さんの存在を知った。暗闇のエンターテイメントを謳う「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の総合プロデューサーを務める志村季世恵さんだった。
「志村さんとは共通の知り合いが多いことがわかって、一度会いたいと言われてお食事をしたんです。その時に『今度、禅やマインドフルネスをテーマにしたダイアログの施設をオープンするから、そこで働きませんか?』と言われました」
ドイツ生まれのダイアログ・イン・ザ・ダークは視覚障害者がアテンドになって、来場者を真の暗闇に案内するというもの。日本では1999年に初開催され、2019年11月に神宮外苑に「内なる美、ととのう暗闇。」という会場がオープンした。暗闇の中で、2時間かけて自分の身体感覚を研ぎ澄ますことがテーマとなっている。
見える人を見えない世界に誘導し、さらにマインドフルネスの指導もできる。まさに石井さんはアテンド役として適役だった。
「僕は中途視覚障害者だから、見える人の気持ちも見えない人の気持ちもわかる。さらにセラピストしての感覚も活かせる。PRやイベント企画で人前で話すのも得意。自分がこれまでやってきた仕事と、見えなくなったことが重なり合って、こんな仕事に出会えるとは思いませんでした」
今、石井さんはかつてと同じように、あるいはそれ以上に充実した日々を過ごしている。現在はほぼ毎日、高速バスで往復4時間かけて通勤し、休日には館山の海辺でゆっくり過ごすこともあれば、6歳になった娘を連れて都内の美術館を回ることもある。
「娘はもう相棒みたいです。美術館に行くとどんなものが展示されているかを教えてくれる。学校に上がって字も読めるようになったから、迷ったら教えてくれるし、買い物をするときは値札を見て値段を教えてくれる。白杖を使っている人がいたら『パパ、仲間がいるよ』って教えてくれる。学校の友達に白杖は何のためにあるかも説明してくれるんです。息子とも、もうちょっと彼が大きくなったら一緒に出かけられたら、と思っています」
天職のような仕事に出会い、家族と支え合う毎日。成長が見られないかもしれないと嘆いた息子のことは、何気ない会話を通して成長を感じている。視力は退院した頃よりもさらに少し良くなり、ぎゅうと抱きしめるほど近づけばちゃんと顔も見える。
「いつかきっと治るって信じているんです。僕も妻も。だからこの世界にいるのも期間限定。そう思って楽しもうと思っています」
そんなふうに笑いながら、石井さんは駅で「また会いましょう」と笑顔を向け、白杖を手に取りスタスタと歩いて行った。その姿には何の不安も感じられなかった。