あいちトリエンナーレという舞台で芸術が起こしたアクション/相馬千秋×カゲヤマ気象台 

文=住本麻子、カネコアキラ
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あいちトリエンナーレという舞台で芸術が起こしたアクション/相馬千秋×カゲヤマ気象台 の画像1

2019年、あいちトリエンナーレを舞台としてさまざまな問題が噴出した。電凸、脅迫によって「表現の不自由展、その後」が中止に追いこまれ、一時的にであれ文化庁からの補助金不交付の決定が出た。このことは、現代の社会や芸術をめぐる環境を象徴的に表しているともいえる。

わたしたちはそのような現実に対し、どのように対応していけばいいのか。いま芸術にできることは何か。あいちトリエンナーレをめぐるさまざまな問題に対して、芸術はどのように反応したのか。

「表現と自由」企画第4弾は、演劇に携わるアートプロデューサーの相馬千秋さんと劇作家・演出家のカゲヤマ気象台さんに、あいちトリエンナーレに対して芸術が起こしたアクションを中心にお話をうかがった。

あいちトリエンナーレという舞台で芸術が起こしたアクション/相馬千秋×カゲヤマ気象台 の画像1

相馬千秋
NPO法人芸術公社 代表理事/アートプロデューサー。「急な坂スタジオ」初代ディレクター(2006-10年)、国際舞台芸術祭「フェスティバル/トーキョー」初代プログラム・ディレクター (F/T09春〜F/T13)、文化庁文化審議会文化政策部会委員(2012-15年)等を経て、2014年NPO法人芸術公社を設立。国内外で舞台芸術を中心としたプロデュースやキュレーションを多数行っている。2015年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエ受章。2016年より立教大学現代心理学部映像身体学科特任准教授。2017年に「シアターコモンズ」を創設、現在に至るまで実行委員長兼ディレクターを務めている。2019年には「あいちトリエンナーレ2019」のパフォーミング部門のキュレーターも務めた。

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カゲヤマ気象台
演劇プロジェクト「円盤に乗る派」代表。1988年静岡県浜松市生まれ。2008年に「sons wo:」を設立し、劇作・演出・音響デザインを主に担当する。2018年より「円盤に乗る派」に改名。2013年、『野良猫の首輪』でフェスティバル/トーキョー13公募プログラムに参加。2015年度よりセゾン文化財団ジュニア・フェロー。2017年に『シティⅢ』で第17回AAF戯曲賞大賞受賞。

あいちトリエンナーレという巨大な「戯曲」

相馬 わたしはあいちトリエンナーレ(以下、あいトリ)において、パフォーミング・アーツ部門のキュレーターをさせていただきました。

今回津田大介芸術監督が提示した「情の時代」というコンセプトは、わたしたちが生きる時代そのものを象徴する優れたテーマで、わたし自身もおおいにインスピレーションを掻き立てられました。「情」は感情の「情」だけでなく、情報の「情」でもある。また、情けとか、憐れみという意味もあります。

現代、わたしたちはグローバル資本主義がつくりだすシステムや情報操作によって不可避的に感情を煽られ、その結果、社会にはさらなる分断が生じている。その状況を芸術によってどう乗り越えていくかが、あいちトリエンナーレの挑戦だったわけですが、気がつけば、芸術祭自体が悪い意味での「情の時代」を演じてしまいました。

「表現の不自由展、その後」(以下、不自由展)では、通常は美術館の内側や美術の文脈の中に置かれている作品が、良くも悪くも社会に剥き出しにさらされ、人々の感情を煽るトリガーになりました。その結果、ネット炎上や電凸などの問題が起きましたが、それについてメディアが書けば書くほど、さらに「情の時代」が煽られていく。そんな怒涛のなかで、わたし自身も含め、参加アーティスト、キュレーター、事務局スタッフ、政治家、メディア、そして観客たちがいつの間にかそれぞれの信じるものを主張して複雑に絡みあっている、まさに「情の時代」という巨大な戯曲を演じているような状態になったと思います。

「情の時代」は ‘Taming Y/Our Passion’ という英語になっています。Tame は飼いならすという意味です。感情を意味するPassionという単語には、「受難」とか「困難」という意味もあるんですね。今回、扇動され暴走する感情をいかに飼いならしていけるのか、ということが芸術的課題だったのに、逆に「情の時代」に飼い慣らされてしまった。そこでわたしたちが直面した困難を、どうやって憐れみ=情によって乗り越えていけるのかが試された。最終的にはあらゆる困難の果てに1週間だけでしたが不自由展を再開できたので、一旦は乗り越えて終わることができたと言えますが、重要なのはこれからです。もっと大きな困難が日本にはあるということがこれだけ可視化されたわけですから。

カゲヤマ 「情の時代」を飼いならそうとして、逆に飼いならされてしまったという感覚はあいトリにかかわらず、表現する人たちが問題意識として抱えている部分だと思います。

いまこの社会に対して抵抗したい、社会を変えていきたいと思ったときに、それに対して単純にプロテスト(抗議)しても無効化されてしまう。たとえばツイッターなどのSNSで抗議を表明して、それが多くの人に拡散されたとしても、それは一時期のバズりで終わってしまいますよね。そうなると、いかにそのような社会の内部に潜り込んで、乗り込んで対抗していくか、という戦略を立てなければいけない。嫌いなものにすら、自分を同化させていかなければいく必要があるんです。

でもそれはむずかしい話で、飲み込まれてしまうこともある。バランスの問題だと思います。社会に対する同化が弱すぎると乗れないし、強すぎると飲み込まれてしまう。どう乗りこなすか、そのバランス感覚をどうしたら鍛えられるかを常々考えています。

相馬 おっしゃること、とてもよくわかります。ある対象を外側から批判することはやりやすいですよね。演劇、とりわけブレヒト以後の現代演劇は、社会を批評的に捉えることが一つの価値であり機能ともなっています。しかし批評するときに、自分がその批評する対象の外側にいるということでは、まったく立ち行かなくなっている。その直感をカゲヤマさんは持たれているんだなと思いました。では自分もその批判対象の一部であり、その内側にいる構造から逃れられない、という自覚を持ちながら、その構造自体にどう変化をもたらすことができるのか。これはわたしにとっても、非常に重要な問いです。

誤解は織り込み済みでなければならない

相馬 その問いについて、今回のあいちトリエンナーレでは作品を通して考えたかった。藤井光さんの映像インスタレーション『無情』にしても、高山明さんの『パブリックスピーチ・プロジェクト』にしても、見かたによっては保守系の人たちが喜びそうなものです。戦前のアジア主義の言説をわざわざ扱うとか、旧植民地時代の台湾で行われていた皇民教育のプロパガンダ映画をベースにするとか。

つまり批評する対象の内側に入り込み、いったんはその劇薬を食らうということが試みられているわけです。このように批判対象の領域に侵入して内破するアプローチは、非常にリスキーで、誤解される可能性もある。それを創作レベルで、いかにギリギリの線で伝えられるかが肝になってくると思います。

カゲヤマ 誤解されるというのが、すごくむずかしい問題だと思います。今回あいトリには行けなかったのですが、自分も過去に見たことのあるChim↑pomの「気合い100連発」という作品が、「福島に対するヘイトだ」とか、明らかにそうじゃないだろうというかたちで誤解されているのを見ました。

そのように誤解してしまう人の言説が大きくなっていくことに対してどうすればいいのか、わからなくなりました。ストレートに「違う」と言うことはできるけれど、言ったところで理解を深めることにはならない。そういうことが起きてしまうことを織り込んでおかないといけないんだな、と態度変更を迫られたような感じです。

相馬 それは萎縮したということですか?

カゲヤマ 萎縮とか、自己規制が起こりうることとして、はっきりと自分の問題として抱えていかないといけないと思ったんです。今回の件ではぼくらの社会が、特定のレトリックが通じない、誤解を招かれやすい場であるという事実をまざまざとつきつけられたように思いました。この「誤解されても構わない」という開き直った態度をとり続けることがむずかしい現状で何かを訴えるためには、あらゆる人たちの論理を織り込んだうえで、それなりにうまくやっていく必要がある。

しかしあまりに気にしていては、自己規制の内面化が常態化して、身動きがとれなくなるということにも繋がります。そうならないように常に自分を監督して、それこそバランスをとりながら、批評し続けるような視座も同時にもち続けなければならない。

相馬 わたしはこういう状況だからこそ、作家にはできるだけ自由に、より大胆な発想でサバイブして欲しいと思っています。というのも、行政、美術館や劇場、助成団体など、あらゆるレベルで自己規制はすでに起こっていて、これからもっと酷くなるわけだから、その流れに作家も同調してしまっては、もう面白いものは世に出なくなってしまう。「誤解されないよう気をつける」のではなく、自己規制の内面化とは別の方法で、可視化された問題に抗する別の回路をつくっていくほうが、よりクリエイティブなのではないかと思います。

カゲヤマ それもよくわかります。ではどうすればそれをつくっていけるのかということが問題になると思います。ぼくは最近、なるべく自分と近いところで、小さくても対話の場をどうつくっていけるかを考えています。日本国内でもそうだし、海外の人々との接続方法も含めて検討しているところです。近い領域の人たちであっても、それぞれ異なる、独自の知恵を持っていますし、それを交換したり共有したりして、少しでも助けあってくことが必要なんじゃないか。

インターネットを通じていくらでも大勢に発信できる現状だからこそ、むしろ小さい集まりにこそ可能性があるのではないかと思います。今、多くの人が対話の必要性を感じているという実感がありますが、そのための場所や仕組みはまだまだ少ないように思います。新しいやりかたで繋がりながら、対話を通じて連帯の層を厚くしていかない限りは、表立った、大きな「表現」は変わらない、と。

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