あいちトリエンナーレという舞台で芸術が起こしたアクション/相馬千秋×カゲヤマ気象台 

文=住本麻子、カネコアキラ
【この記事のキーワード】

実践としての「#PublicApple」とJアートコールセンター

あいちトリエンナーレという舞台で芸術が起こしたアクション/相馬千秋×カゲヤマ気象台 の画像2

カゲヤマ気象台さん

カゲヤマ あいトリの助成金不交付の決定が出たとき、三鷹のSCOOLというスペースで「あいちトリエンナーレ補助金不交付に抗議する緊急集会」というイベントが行われました。ダンスを中心に様々なジャンルのアーティストが集まってパフォーマンスをおこなったのですが、そこでぼくは「#PublicApple」という“人が対話をするための仕組み”を提言するためのプレゼンをしました。

「#PublicApple」とは、コンビニやスーパーで売っているDoleのアップルジュースを持って街を歩き、同じくDoleのジュースを持っている人と出会ったら、そこで10分間くらい今回起きた補助金不交付の問題について話す、というシンプルなものです。

先ほどの話につながるのですが、もし大きな、たとえば革命のようなことを起こすとしても、下支えするようなものが必要です。過去には大学や喫茶店がそのような場として機能していたと思うのですが、いまそういう場所がないと思うんですよね。その中で文化庁の前に直接抗議に行っても、その活動は長続きしない。そのバックグラウンドで人と話せる場所が必要だと思い、提言しました。

「#PublicApple」を実際やってみたところ、補助金不交付に対して単純にダメだということ以上の対話ができたのはよかったです。同じようにダメだと思っていても、なぜダメだと思うかの理由はさまざまでした。署名をしたりデモに行くのではわからない、それぞれの立場や考えかた、捉えかたの微妙な違いが、大声の主張でも練られた文章でも、感情的なツイートでもなく、近い距離における小さな話し言葉として聞くことができたのは、豊かな体験だと思いました。それと、何がダメなのかよくわからないという人、芸術関係者ではない人と話せたのも大きかったです。

その人たちと話すうちに自分の立場を整理できましたし、感情的なことや感覚的なことを交えずに不交付問題について話せたというのがよかった。こういったバックグラウンドを持てたのは自分にとってとても意味のあるものでした。

相馬 カゲヤマさんがやられているように、フィジカルに人と出会ったり話しあったりする仕組みをどうつくっていったらいいか、という問いは、わたしにとっても大問題です。

今回わたしが強烈に感じたのは、自らすすんで対話をしたいわけではない人との対話をどうするか、という問題です。不自由展を中止に追い込んだ電凸問題への応答として、高山明さんを中心としてReFreedom_Aichi が立ち上げた「Jアートコールセンター」は、まさにそのことと向きあう企画でした。愛知県やトリエンナーレ事務局に寄せられる激しい電凸を緩和するために、別回線のコールセンターを立ち上げ有志のアーティストやキュレーターが苦情電話に応じたわけですが、これは電凸という火球の問題に対する具体的なアクションであると同時に、わかりあえない者同士が対話する演劇的な仕掛けでもありました。さらには社会のなかで実装可能なサービスでもある。二重三重の意義があったと思います。

実際わたし自身も不自由展再開と同時にオープンした「Jアートコールセンター」で、鳴り止まない電話をとっていました。普段演劇やアートを観に来る人たち、つまり芸術を媒介とした対話を求めている人たちとはまったく違う人たちが、ネットで得た情報に感情を煽られ、本当に怒ってかけてきました。そもそも彼らは、自分とはだいぶ価値観や歴史観が違うわけです。

お互い異なる価値観・歴史観を持っていて、もはやそれをすりあわせることはできない。わかりあうことはない。けれども不一致なまま、共存していくということはあるのではないか。わたしは最初、自分の考えは主張せずひたすら相手の話を聞くようにしていましたが、1時間くらい経つと一方的な主張がおさまってきたりするんですね。そこでこちらの意見を伝えてみたりすると、「まあそういう考えかたもあるかもね」というくらいのことは言ってくださる。別に同意ではないんですよ。それでも少し共存したかなという感覚はある。

つまり重要なのは、「そこに来ない人たち」をどう考えるかだと思います。もしかしたら彼らのほうがマジョリティかもしれないし、実は自分の親族や古い友人など、すごく身近にいるのかもしれない。そういう人たちとどう向きあい、対話する回路をつくっていくか。カゲヤマさんはどう思われますか?

カゲヤマ 実際すごくむずかしいですよね。いまの時点ではまだわからないです。少しずれるかもしれませんが、自分の表現のモチベーションは、「なるべく悪くない社会を続けていけること」です。こう言うと消極的な現状維持に聞こえるかもしれませんが、今のままでは社会は悪くなっていってしまうのではないかという危惧があるんです。そのために何らかの具体的な方法や考えかたを提示したり、じっくり考えるための場を作ったりしていかなくてはならない。

「社会をよくしていく」という言いかただと少し違います。それだと理想を掲げて向かっていくということになります。でも答えの出ないもの、あいまいなもの、理想的でないものを扱うのが芸術ですから。そして「なるべく悪くない社会を続けていけること」というのは、もっと簡単にいえば、自分が長く演劇を続けていけられるようにすることです。演劇が必要で、意味があり、求められる社会を保ち続けること。しかも特定の権力を保持するためではなく、人々が自由でいられるために必要とされる社会でないと、自分は演劇を続けていられません。

まだ演劇が必要とされていると思えるこの現状を長続きさせるためには、まず文化的なことに関心がある人たちで集まることが第一に重要だと思っています。そこが薄くなってしまっては、問題意識を他の多くの人に波及させていくのはむずかしくなってしまう。

でもそこだけで終わってしまっても、当然長続きはしないので、どうしたらその先に開いていけるかは、試行しつづけたいなと思います。これはいま自分がやっていることの規模の問題でもあります。普段、せいぜい数百人の、比較的文化に関心の高いと思われる観客を相手にしているので、なかなかまったく違う他者とは出会いにくい。この現状から出発せざるを得ない状況で、何を優先的に行っていくべきかという問題です。

相馬 そうですね。いきなり何万人という規模でなくても、まずはモデルをつくって実験して、変形・拡張させながら社会に実装されればいいと思います。問題は、小さいモデルをいかに戦略的に先鋭化させられるか、ということでしょう。

あいトリでは、皆がそれぞれの正義を語ることでコミュニケーションが袋小路に陥るような状態がありました。正義は自ずと敵と味方を分け、敵を批判するコミュニケーションが生成されていくからです。そのような場では、論理的に正義を主張し相手を論破するようなコミュニケーションが不得意な人はどんどん後退させられてしまう。そうなると、究極的には裁判のように、グレーの現実を無理やり白黒に分けて、それぞれの正義をかけて戦いあうコミュニケーションしか残りません。けれどそうしたコミュニケーションのありかたをずらすことこそが演劇やアートのとるべきコミュニケーションだったはずではないかと。その場で支配的なコミュニケーションの方法をずらしたり、組み替えたりすることにアーティストはクリエイティビティを発揮できる存在なはずです。 

※「社会で表現することをあきらめない/相馬千秋×カゲヤマ気象台」に続く

(企画/住本麻子・カネコアキラ)

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