Netflix『最高に素晴らしいこと』は最高に素晴らしい喪の映画か?

文=久保豊
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Netflixオリジナル映画『最高に素晴らしいこと』

 2020年2月28日から配信開始されたNetflixオリジナルの青春恋愛映画『最高に素晴らしいこと』(ブレット・ヘイリー、2020年)は喪の映画(mourning film)である。

 恋人や家族と死別した悲痛を扱う欧米圏の映画作品を分析したリチャード・アームストロングによれば、喪の映画とは、「深く悲しまれる喪失を主要テーマとした物語で、映画に数多とある死のスペクタクルを超えて、生者に対して死がもたらす感情を見つめる」映画群を指す(2012、1)。

 ここで重要なのは、喪の映画は死(や遺体)そのものの表象ではなく、主人公(の人生)にとって大切な人やものを失った感情や経験の方に関心を寄せている点だ。近年の例を挙げれば、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(Extremely Loud & Incredibly Close、スティーヴン・ダルドリー、2012年)や『四月の永い夢』(中川龍太郎、2018年)が喪の映画として分類されるだろう。

 では、『最高に素晴らしいこと』はいかに喪の映画になりうるのか。

 本作は、ジェニファー・ニーヴンが2015年に発表したヤングアダルト小説『僕の心がずっと求めていた素晴らしいこと』(All the Bright Places、石崎比呂美訳は2016年に辰巳出版より刊行)を原作とする。インディアナ州のある小さな街を舞台に、数カ月前に交通事故で死んだ姉の死を悼む高校生のバイオレット・マーキー(エル・ファニング)とクラスで変わり者扱いされているセオドア・フィンチ(ジャスティス・スミス)の交流を描く。

 インディアナ州の名所へ赴き、「その地が自分にとって何を意味するのか」「なぜその地を選んだのか」を発表する学校の課題で二人はペアを組む。フィンチ(彼はラストネームで呼ばれることを好む)に半ば強引に誘われ、最初は気が進まないバイオレットであったが、インディアナ州の珍しい場所を、二人にとって忘れられなくなる場所を訪れていく過程でフィンチと恋に落ち、姉の死を乗り越え、前向きに生きていくための光を見つける。

 喪の映画は一般的に女性映画(women’s cinema)の延長線上に位置する。主人公となるのは典型的に喪に服す女性である。映画版も原作同様にバイオレットとフィンチの視点を切り替えながら展開するが、映画版は前者の視点に比重を置く点で、典型的な喪の映画の特徴を踏襲していると言えるだろう。

 しかし、本作で見逃してならないのはフィンチ自身も喪の渦中にいることだ。彼もまた強大な喪失と対峙している。彼の喪は誰かを亡くした経験によるものではなく、精神面で問題を抱えた彼自身が心の安寧を失う経験から生じるものだ。

 映画版の脚本には原作者のニーヴンが関わっているが、フィンチの喪をめぐる心的描写が原作ほど前景化されているとは言い難く、実写映画化の困難が如実に証明した作品という点は残念である。喪失の物語におけるジェンダー不平等については、本稿の最後に触れていく。

 本作は喪失の感覚をどのように描くのか。本稿では、喪の映画のケーススタディとして本作にみる「移動」と「喪失」について考察する。喪の映画に関する批評言説の蓄積は2000年代からようやく本格化したばかりである。本作の分析を通じて、Netflixがいかに青春恋愛映画と喪の映画という二つの映画カテゴリーを掛け合わせているのかを明らかにしたい。

喪失の淵に立つ

 本作の主題の一つは、「どこへ行くの?」という問いである。その問いかけは映画冒頭からすでに始まっており、端的には、とある早朝にランニング中のフィンチがヘッドフォンで聴いている、クレア・ジョージの“Where Do You Go?”によって音響的に示される。

 「どこへ行くの?」という歌の題名が暗示するように、目的地もなさそうに走るフィンチは、高架手前の橋の手すりに少女が立っているのを見かけ、それが同じ高校に通うバイオレットであることに気づく。重たい表情を浮かべた様子から何かを察し、フィンチは彼女の真似をして手すりの上に立ち、彼女へそっと手を差し伸べる【図1】。

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【図1】生と死の境界に立つバイオレットへ差し出されるフィンチの手

 二人だけの秘密となるこの出会いにおいて、すでに二つの喪失が交錯している。一つは、数カ月前に交通事故で姉が死んだバイオレットが抱える喪失である。交通事故の生存者としてサバイバーズ・ギルトに苛まれた彼女は、姉の誕生日に事故現場を訪れ、自殺を図ろうとしていた。

 もう一つの喪失とはフィンチが経験しているものだ。バイオレットへ救いの手を差し出すフィンチもまた喪失の淵に立っている。本作はフィンチの走る姿から始まるとすでに述べたが、なぜ彼は早朝に走っているのか。

 学校の課題でフィンチと最初に訪れるインディアナ州で一番高い丘<フージャー・ヒル>において、バイオレットはなぜあの日橋のところにいたのかと彼に尋ねる。フィンチは「ランニングさ」と苦笑いを浮かべ答えをはぐらかし、まっすぐと彼を見つめる彼女の視線から顔をそらす【図2】。

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【図2】バイオレットに対して隠し事を続けるフィンチ

 なぜフィンチは走るのか。本作において観客はフィンチが走る姿を四度目撃するのだが、彼が走る理由は本作の後半で彼が参加するサポート・グループの集会で明らかになる。集会において、フィンチは「時々自分が分からなくなる」( “I just get a little lost sometimes.”)と打ち明け、走ることで気分を紛らわすと話す。

 フィンチにとって、走ることは迫りくる喪失に追いつかれないようにする手段である。喪失に飲み込まれないように走るフィンチが見つけたのがバイオレットである。フィンチが彼女に手を差し出したとき、二つの喪失が重なり合い、物語が動き始めたのだ。

 喪失の渦中において、二人はどこへ向かうのか。次節では、バイオレットが姉の死を乗り越える過程で「移動」のイメージが持つ重要性について考えてみたい。

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