2020年3月16日、相模原障害者殺傷事件の植松聖被告に、死刑判決が言い渡された。報道によれば、植松被告は控訴しない意向だが、弁護団は既に控訴している。
抵抗できない障害者19人を殺傷した罪は、決して軽いものではない。しかし、公判と判決までの流れには、納得できない点が数多く含まれている。このまま植松被告の死刑執行で幕引きされる結末を、私は受け入れることができない。ぜひ、植松被告には控訴してほしいと願っている。
植松被告への書簡という形で、自らの思いと希望をまとめてみることにした。
植松被告をこの世から排除したいのは、どこの誰?
拝啓
植松聖様
はじめまして。私は「みわよしこ」名義で執筆・報道活動をしているライターで、本名を三輪佳子と申します。本年56歳になります。発症時期不詳の精神疾患を持つ精神障害者であり、また42歳で運動能力の急激な低下によって車椅子生活となった身体障害者でもあります。また2019年までは、障害者団体に所属して障害者運動を行っておりましたが、報道活動に求められる中立性と障害者運動家の立場は両立できないため、辞しました。
本日は、ぜひ控訴していただきたいと考え、手紙を差し上げております。
まず、あなたにぜひ知っていただきたいことがあります。
障害者団体、特に精神障害者団体は、どのような意味においても、あなたを排除の対象とは考えていません。植松様の事件に関しては、「見知らぬ仲間の障害者が殺された」ということの重みは受け止めつつ、加害者であるあなたを「私たちの仲間の一人」と考えています。
その理由は、あなたが精神疾患をお持ちと伝えられているからではなく、あなたが人間だからです。人間である以上、事件の犠牲となられた19人の障害者の方々と同様に、あなたは私たち人間の仲間です。その19人の方々を、あなたがご自分と同じ人間とお考えになるかどうかは、関係ありません。昨年まで私も「中の人」であった障害者団体は、あなたに対する死刑判決の可能性に、一貫して反対してきています。
反対する理由は、「人間の生命が強制的に奪われることは許されない」という一点に尽きています。もちろん、亡くなられた19人の方々も、生命を奪われてはなりませんでした。しかし、亡くなられた方は生き返りません。
あなたは生きています。だから、「国に生命を奪わせてはならない」と声をあげているのです。
植松被告を悲劇のヒーローとして死なせてよいのか?
私が「控訴していただきたい」と考えている理由は、3つあります。
第1の理由は、「日本社会が、あなたの物語を完成させることに貢献する理由はない」ということです。
あなたは、日本と世界のための「正義」であるという確信のもと、津久井やまゆり園の障害者を殺害しようとされました。結果として19人の方が生命を失い、多数の方が心身に傷を負いました。正義の主張が社会に受け入れられないことは、よくあります。また、正義が実現したのち、先頭に立っていた正義の旗手が見せしめ的に刑罰を受けることも、よくあります。実例は、中世フランスのジャンヌ・ダルクや宗教の殉教者たちなど、数多く存在します。
あなたの死刑が確定し、執行されると、「正義の行動が社会に理解されず、正義が社会の犠牲になって終わる」という物語が完成します。
ご自身は、その結果をお受け入れになられる心づもりでおられるのかもしれません。しかし私は、そのような結果には納得できません。正義を打ち砕く別の正義があるとき、本当に、それは正義なのでしょうか?
日本という国家は、死刑という形で人命を奪うことができます。もしも「障害者を殺してはならない」という正義が日本にあるのなら、同じ理由で、植松様を殺してはならないはずです。「人を殺してはならない」という正義があるのなら、同じ場に「死刑という形で人を殺してよい」という正義が存在するわけはありません。
「死刑という形で人を殺してよい」という正義は、「何か正当な理由があれば、人を殺してよい」という正義です。それは、津久井やまゆり園の障害者をあなたが殺傷された時の「障害者は生きる価値がないから、殺してよい」という正義と、どこが違うのでしょうか? 私には、同じものに見えます。率直に言えば、同様に屁理屈、同様に「不」正義です。
私は、日本に社会的正義が存在してほしいと望んでいます。あなたの処刑という形で、社会的「不」正義が新しく重ねられることは望みません。
あなたが控訴しても、高等裁判所で死刑判決が繰り返されるだけかもしれません。しかし、それでも、死刑執行という日本の新しい「不」正義の実現は、何年か先送りされます。その数年間に、日本は正義といえる正義を発見する機会に恵まれるかもしれません。
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