植松聖被告への手紙 この死刑判決に社会的正義はあるのか?

文=みわよしこ
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本来、中断されるべき裁判だったのでは?

 第2の理由は、あなたの公判は1月時点で中断されるべきであったと考えているからです。

 おそらくご存知のことと拝察しますが、精神疾患は審理停止の理由となります。「自傷他害のおそれ」があるということは、措置入院の対象となってもおかしくないということです。この場合、精神疾患による審理停止が検討されるべきではないでしょうか。

 今年1月、あなたは初回公判でご自分の手の小指を噛み切ろうとなさいました。「自傷他害のおそれ」ではなく、実際に自傷なさったわけです。その後は、自傷できないように両手にミトンを装着されていらっしゃいます。このことは、「自傷他害のおそれ」が引き続き存在していることを示しています。

 そのような場面で裁判所が検討しなくてはならないのは、審理を中止して、被告に治療を提供することです。裁判は、被告の心身の健康のもとで行われるべきものです。ご自分の行動の結果として起こった重い出来事に向き合い、被害者やそのご家族とともに重みを考える厳しい作業なのですから、概ね健康な肉体と、正気の精神と頭脳がなくては出来ません。しかし裁判所は審理を中止せず、自傷他害のおそれがある被告のあなたに対する審理を継続し、死刑判決に至りました。

 重大な事件に関する裁判が、こんなデタラメによって継続されてはたまりません。さらに、死刑という重い判決もまた、デタラメによって下されてはなりません。そんなことの起こる日本には、社会的正義など存在しないのかもしれません。しかし裁判は、あくまでも社会的正義を実現するための場です。

 この事件に関して、デタラメではなく社会的正義に基づく裁判が行われてほしい。それが私の望みです。

 あなたに控訴していただければ、社会的正義に基づく裁判のやり直しという機会が生まれます。

障害者の命の価値が、健常者よりも軽い現実

 3つ目の理由は、あなたによる「障害者の生命の価値とは」という重要な問題提起に、日本社会は真剣に向き合うべきだと思うからです。

 私自身は、どのような障害があろうが、一人の生命の重みは「人間一人分」だと考えています。一人では生きていけない人、生きていくために他の方の援助や費用が必要な人の生命の価値を「健常で働けて稼げて社会的地位もある人と同じ人間一人分」と考えて、その考え方を実現することこそ、すべての人間に課せられている使命だと思っています。

 かつて世界中に、働けなくなった高齢者を死なせる「姥捨て」の風習が存在しました。生産性のない人の生命を切り捨てなければ、その集落が生き延びられなかったからです。しかし世界のあらゆる場所で、より豊かになろうという努力が重ねられてきました。より豊かになり、余裕を生み出せば、誰の生命も切り捨てる必要がなくなるはずです。愛しく大切な家族を、涙ながらに死なせる悲劇は減らせるはずです。そのために、世界の国々は先進国になろうとしてきました。現在も、世界全体の調和を保ちながらの発展が目指されています。

 現実はどうでしょうか? あなたはきっと、新型コロナウイルスへの感染が世界中で拡大し、数多くの肺炎患者が発生していることをご存知でしょう。多数の患者がいる国々では、人工呼吸器が不足しています。「高齢者や障害者には、必要でも呼吸器を使わない」という選択が、実際に行われています。

 「医療経済学」という学問分野があります。必要な資源に対して、実際に使える資源が不足している場合、何らかの基準で資源の割り振りを行う必要があります。あなたがおっしゃる「生産性」を基準とする判断は、世界中の医療現場で、「当たり前」あるいは「仕方ない」という形で行われてきました。その「当たり前」と「仕方ない」が、現在の新型コロナウイルス肺炎の治療現場でも行われているだけです。

 現実の世界の中では、人間の生命の重みは「生産性」によって計られています。「生産性」によって、「生きてもらう」「死んでもしかたない」という仕分けが行われています。10人が人工呼吸器を必要としているのに1台しかないのなら、1人しか生きられないことになります。10台の人工呼吸器を調達できるのなら、10人全員を救うことができます。しかし、1台しかないのなら、何らかの根拠によって1人を選ばなくてはなりません。あまりにも重い判断ですが、時には、すぐに判断しなくてはならない辛い場面もあります。そのために、医療経済学をはじめとする学問分野が作り上げられ、数多くの人々が考え、悩み、議論し、「こういうときには、こうするしかないということにしよう」という指針を作り上げてきました。

 あなたは、津久井やまゆり園の障害者たちに対して「生き続けるべきではない」と判断され、実際に殺傷なさいました。それは、ご自分のお考えと思いに基づく判断です。亡くなられた障害者の皆さん、そしてご遺族の皆さんには、別の思いやお考えがあります。それを無視して、殺傷を実行されたことは、確かに「身勝手」と言うべきでしょう。

 しかし、植松様を「身勝手」と非難し、死刑判決を下した日本において、障害者一人の生命の価値は、本当に健常者一人と同じなのでしょうか? 決して、そんなことはありません。

障害者は被害者になれない?

 知的障害者や精神障害者が暴力などの被害を受けた時、しばしば、警察に被害届を出すことが出来ません。障害者には、健常者と同じ意味で「被害者」になることが難しいという現実があります。被害届を出すことが認められて「被害者」となり、「加害者」が起訴されたとしても、刑罰は極めて軽いものになりがちであるという現実もあります。

 2012年、精神科病院に入院していた青年が看護スタッフ2名の暴力によって頚椎を骨折させられ、その後に亡くなりました。ご遺族の必死の努力によって証拠が集められ、看護スタッフ2名は起訴されました。しかし地裁判決では、1人は無罪、1人は罰金刑となりました。人間の生命を奪っても、その人が精神障害者である場合、このような判決がありうるのです。

 もちろん、ご遺族は納得しませんでした。それだけではなく、納得しなかった検察が控訴しました。しかし東京高裁は、2018年、さらに軽い判決を下しました。亡くなった青年は、大学生の時に精神を病み、入退院を繰り返していました。頚椎を骨折させられた後、「生産性」のある状態に戻る可能性は、さらに少なくなりました。裁判では、それらが総合的に考慮され、人命を無に等しいものとした判決となったわけです。

あくまでも「生産性」で生命の価値を計る現実

 また、誰かが事故などで亡くなった場合の損害賠償の金額は、「生産性」に基づいて判断されてきています。具体的には、「寿命まで生きた場合、何円を稼ぐ可能性があったか」という計算が、損害賠償の根拠になります。その方が亡くなることによって、その方が得るはずだった収入が失われることは、具体的な損害です。しかし、施設に入所していたり作業所に通所していたりする知的障害者が事故などで亡くなった場合、稼げない上に支援や介助のコストが必要なので、「損害はゼロ円」という計算が成り立つ場合があります。大切な家族の命を奪われた遺族に対する損害賠償として認められてきたのは、長年にわたって、形式的な見舞金程度の金額でした。具体的には、多くとも100万円程度です。

 しかし、2005年ごろを境に流れが変わりはじめました。その人が生きていたことそのものや、生きていれば受給できたはずの障害年金を考慮した判決が現れはじめたのです。2014年、日本は国連障害者権利条約の締結国となりました。このことは、健常者と同様に働いて稼ぐ可能性が障害者にもあること、すなわち、障害者が亡くなることによる損害はゼロ円とは言えない可能性を意味しています。実際に、2000万円以上の損害賠償を求める判決も現れはじめました。とはいえ、この判決は、障害者施設の運営者たちから「いざという時、ここまで責任を負わなくてはならないのなら、施設を運営できなくなる」という反発を受けました。似たような事例の多くは、未だに「知的障害者は稼がないのだから、損害賠償の必要はない」と言わんばかりの決着にとどまっています。

「生命の価値」を無視した量刑を認めてよいのか

 25歳の健常者が亡くなった場合、損害賠償額は、数億円に達する場合もあります。しかし25歳の知的障害者が亡くなった場合、損害賠償額は、高くても2000万円程度です。この現状がある限り、「知的障害者の生命の価値は、健常者の生命の価値の10分の1以下」という計算が成り立つのではないでしょうか?

 健常者を殺害した場合、概ね「3人殺せば死刑」という目安があります。2人を殺害した事件は、死刑にならない可能性があります。もしも知的障害者1人の生命の価値が、健常者1人の生命の価値の10分の1なのなら、知的障害者19人の生命の価値は、健常者1.9人分ということになります。無条件に「死刑」という判断は、できないはずです。

 しかし、あなたの裁判では、知的障害者の生命の価値に関する計算が、徹底的に避けられたように見受けられます。日本社会には、「障害者といえども生命は尊い」という建前があります。同時に、「障害者の生命は健常者の生命よりも軽い」という現実のルールが存在し、裁判の判決などで繰り返し確認されています。なぜ、あなたの裁判だけが、現実のルールの例外になるのでしょうか? 私には、例外にしてよい理由は思いつきません。

 あなたが控訴され、障害者の生命の価値について正面から法廷で争ってくださることを、私は心から望んでいます。建前やムードでごまかすのではなく、「本当のところ、この日本社会で、障害者の生命の価値は健常者と同じなのか?」「どのような場面で、『生産性』で人命の価値を測ることが許されないのか?」という問いに、日本のすべての人々が正面から向き合うべきだと思います。それが出来ないのなら、日本社会にあなたを裁く資格はないはずです。

 長くなりました。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

 植松様が控訴してくださることを、私は心から望んでいます。

 理由は、ここまで述べてきたとおり、「人を殺すことが悪なのなら、死刑によって人を殺すことも悪」「現に自傷している人に治療の機会を与えず、被告として裁判を継続するのは正義ではない」「障害者の生命を健常者より軽んじており、『障害者19人は健常者2人以下』という計算も成り立つ日本社会が、障害者殺傷の罪で死刑判決を下すのはおかしい」という3点です。

 残された時間はわずかですが、どうぞ良くお考えいただけるように、お願い申し上げます。

 返信用封筒を同封いたします。

 気持ちが向かれたら、一言でかまいません。何かお返事をいただければ幸いです。

 春は心が不安定になりがちな季節です。どうぞご自愛くださいませ。

敬具
2020年3月27日  みわよしこ(三輪佳子)

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