裁判員は遺族と世間の代理人? 忘れられた「修復的司法」

文=みわよしこ
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忘れられてしまった「修復的司法」

 現代、多くの国々の裁判員裁判は、「修復的司法」の考え方に基づいている。

 罪を犯した被告がいて、その罪によって社会が傷ついている時、社会の傷を修復する必要がある。被告には、社会の一員として、直接の当時者としての責任を果たしてもらわなくてはならない。でも、たった一人で責任を果たすことはできない。そもそも被告は社会の中で育まれ、社会の中で罪を犯した。だから、傷の修復は社会全体の務めである。これが、「修復的司法」の前提だ。

 日本の裁判員制度のモデルとなった国々の多くでは、何らかの意味で、裁判員制度は修復的司法とセットになっている。

 修復的司法の例として取り上げられることが多いノルウェーの最高刑は、禁固21年である。刑務所での毎日は「ふつうの生活」であり、教育をはじめとする数多くの機会も提供される。受刑中も社会の一員であり、いつか刑務所を出て社会に戻っていく。だから、社会の一員としての生活と人生から切り離さない。ノルウェーの刑務所の中では、テレビやパソコンを利用できる。最高刑に処せられた大量殺人犯も、例外ではない。

 しかし修復的司法は、それぞれの国々の事情や国民性に沿って発展している。修復的司法が機能していることは、必ずしも「重罪にしない」「死刑にしない」ということを意味しない。刑罰が厳罰化する傾向の強い米国では、修復的司法に基づく裁判員(陪審員)裁判の結果、死刑判決となる場合もある。

 米国出張中に見た虐待死事件の裁判員裁判に関するTVドキュメンタリーを思い出す。「再婚した妻の連れ子を強姦のうえ殺害し、遺体を遺棄」という、まことに悲惨な、しかしよくある事件であった。南部のその州には、未だに死刑が存続している。裁判員たちは、検討と合議の上、死刑判決という結論に至った。そして裁判員の一人は、死刑の理由について、「社会の一員として、人として、父親として、夫としての責任を果たしてほしい」と述べたのだ。

 筆者は、この言葉に驚いた。死刑とはいえ、単なる「重罪にふさわしい重罰」という捉え方はされていないのである。この世から去る瞬間までは、社会の一員なのだ。たとえ、刑務所の中で死刑執行を待つ身であっても。

 日本の裁判員裁判で下される死刑判決や懲役30年の判決に、「その人も社会の一員」という意識はあるだろうか? そこにあるのは、「私たちの社会から永久に消えてください」「私たちの社会から、永久と同じくらい長く消えていてください」という意識ではないだろうか?

裁判は、問題の異物を社会から追い出す儀式で良いのか?

 重大犯罪に限定されている日本の裁判員裁判を「被告を社会から追い出す儀式」と考えると、相模原障害者殺傷事件の裁判に関する数多くの疑問は理解しやすくなる。

 たとえば2020年1月、初回公判で自傷行為を行った植松被告に対し、「自傷他害のおそれ」を理由とした精神科での治療の必要性は、まったく検討されなかった。その後も引き続き、「自傷他害のおそれ」が継続していたにもかかわらず。一般社会、「シャバ」での出来事なら、措置入院の対象になりうるにもかかわらず、だ。

 拘置所にいる植松被告は、一般社会にとって、既に「いない」も同然の存在だ。措置入院は、一般社会にいてほしくない人を精神科病院の中に収容して不可視化する。一般社会にとって安全な存在になれば退院できるが、相模原障害者殺傷事件以後、一般社会にとっての100%の安心が期待されるようになり、「ずっと監視しておけば大丈夫」という方向で制度改革がなされた。既に、植松被告は拘置所にいる。一般社会にはいない。「自傷他害のおそれ」があっても、わざわざ措置入院相当の治療を行う必要はないことになる。

 もしも、治療を提供するために審理を中断すると、大きな問題が発生する。植松被告の治療が終了するまでに、何年を必要とするか全く不明だ。一般社会は、「まだ終わらないのか」という焦燥を抱えさせられ続ける。

 刑事司法には、「儀式」という側面がある。被告の人権を奪う刑罰を決定するためには、根拠のある適切な手続きを踏まなくてはならない。重い決定を、間違いなく下すためには、決定に至るまでの多数のプロセスが適切でなくてはならない。それは、「この社会は、そんなに大きく間違っていない」という信頼への根拠となる。また、「この社会が、この人に、この刑罰を与えることは、たぶん正しい」という根拠にもなる。根拠と信頼を築き上げるためには、一般人の「常識」に照らして必要性が感じられない場合も多い「儀式」が必要なのだ。しかし現在の日本の刑事司法は、この意味で「儀式」といえるだろうか?

 社会の一部を、あの世へ拘置所へ、精神科病院へ障害者施設へと追い出し、そこに閉じ込めておくことは、日本では長年にわたって疑問視されてこなかった。刑事司法と精神医療は、「都合の悪い存在は、私たちの社会から見えなくしておけばいい」という願望を実現する手段であってもかまわないのだろうか? そのコンセプトは、疑ったほうがいい。

 ゴミ収集日に出し忘れた生ゴミをクーラーボックスの中に密閉すると、いずれ腐りはじめる。大量のガスによってクーラーボックスが破損し、突然、臭気が吹き出すかもしれない。そうなると、クーラーボックスを開けて分別することもできない。クーラーボックスごと捨てると、収集もしてもらえないかもしれない。

 日本社会は、「社会の問題を、社会の一部である”誰か”の問題ということにし、その”誰か”を切り離し、閉じ込めたり生命を奪ったりして、社会から問題が消えたことにする」というアプローチを、今すぐ止めるべきではないだろうか。それは、生ゴミをクーラーボックスに隠しているようなものだ。いずれ、社会的コストとして返ってくる。

 誰かを排除し続けて成り立つ社会は、いつもゴミ処理に悩み続けているのも同然だ。排除を止めれば、ゴミ処理問題は生まれなくなる。相模原障害者殺傷事件という経験を、何らかの希望につなぐ可能性があるとすれば、それは、障害者施設や精神科病院や刑務所やあの世への排除そのものを止める方向性だ。

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