国際女性デーにみた日本的「フェミニズムはみんなのもの」と同調圧力

文=遠藤まめた
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トランス男子のフェミな日常/遠藤まめた

 今年の国際女性デーにあわせてメディア各社が打ち出した企画「#メディアもつながる」が控えめに言っても失敗している。

 もともとはシスターフッド(女性たちの絆)を強めるための企画だったそうだが、TBS報道局の記者が「ああ、ついに私もそうなったか。なりたくなかったあれに。いやいや、ちょっと違うんです、違うんだなー。」とフェミニストを揶揄する記事を出してみたり、その記事を批判した記者に対して、別の記者が「あなたもメディア関係者なら、連帯している記者たちの立場を少しも顧みないような、追い詰めるだけのコメントはやめて」と批判したりと、シスターフッドどころではなさそうだ。

 TBS記者は後になって「個人的な甘え」によるものだったとして謝罪したが、一連のことから感じたのは「みんな仲良くフェミニズムっぽいことをやろう」という企業的なPRの限界だった。ここでは「みんな」というとき、すでにその内部にある考えのちがい、感じ方のちがいは無視されている。日本的な「みんな」は、どうしてこんなに排他的なんだろう。

 特に胸が痛かったのは、今回異論を唱えたことで「連帯を乱した」と批判された記者がいたことだ。企業的なPRに付き合わされ、結果として自分たちが大切にしてきた価値観が傷つけられているのに、それに異論を唱えると「連帯を壊した」と言われる構図。どこかで見たな、と思ったら、数年前のLGBTコミュニティでの出来事だった。

 高橋まつりさんが過労自殺をし、そのことが連日ニュースになっていた2016年秋に、LGBTコミュニティが「働きやすい職場」として電通に賞をあげてしまったという出来事があった。LGBTも働きやすいブラック企業なんてくそくらえ、人の死をいったいなんだと思っているんだ、と憤った私は、その通りの記事を書いて、若干コミュニティでの居心地が悪くなった。ヤベェかな、と一瞬思ったけれど、別にそれで特に困ることもないなと思ったので、それ以降もLGBTの運動仲間に対して時々「おかしくね?」と異論をぶつけている。協調性はないかもしれないが、世の中にとって必要だと思ったことなら仕方ないだろうと思っている。企業の中にいたら難しいことだったとも思う。

 私の好きな作家のベル・フックスは「フェミニズムはみんなのもの」という本を書いた。

 「#メディアもつながる」企画を考えたメディアの有志は、きっとこれまで無関心だった人々にメッセージを届けたかったのだろうのだろうが、無関心層の巻き込みという意味ではベル・フックスも熱心だ。

 フェミニズムの考えを伝えるための雑誌、テレビコマーシャルをどんどんやろう、電車やバスの車内広告もいいね、広めて広めて広めまくろう。そんなことを彼女は呼びかける。しかし同時にアフリカ系アメリカ人である彼女の言う「フェミニズムはみんなのもの」とは、フェミニズムはカネのある白人女性の占有物じゃねえぞという抗議でもある。勝手に運動を仕切り、別のリアルを見てきた女性たちの声を封じ込めるようなやり方にはNOと言おう。彼女の言う「みんな」とは、マイノリティや異論を訴える人を包摂するための言葉だ。

 差別を無くそうとする運動が、他の人たちを差別することはよくある。ほとんどの人たちはその事実に目をそむけ、自分たちはクリーンで洗練されているのだと外側の人たちにアピールする。今はそんなときじゃないんだ、扉の外には危険なオオカミがたくさんいるのだといって、異論を唱える人の口を閉ざそうとする。でも、本当はどこの家の中にだって、差別や暴力はある。だれもが安心できる場とは、だれもが不安を口にできる場のことだ。ごちゃごちゃで、整っていなくて、立ち止まることもできるから持ちうるパワーがそこにある。公の秩序を守りましょうという「みんな」ではなく、このような「みんな」を取り戻すことが今回明らかになった日本の課題なのではないだろうか。

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