
(C)JyaJya Films
東日本大震災から9年が経った。
10年の節目を目前に控え、復興の手応えを感じる地域もある一方、原発問題を中心に、いまだ解決されていない課題は多く、「取り残されている」と感じている地域の住民も多い。
今年は「復興五輪」と位置づけられた東京オリンピックが開かれる。聖火リレーは3月26日に福島県双葉郡広野町にあるJヴィレッジからスタートする予定だが、そんな聖火リレースタートの地である広野町を舞台にしたドキュメンタリー映画『春を告げる町』が3月21日より公開される(ユーロスペースほか、全国順次公開)。
広野町は福島第一原子力発電所から南に約20キロ離れた場所に位置する町で、震災直後は全町避難となったが、翌年には避難指示が解除。その後は着実に復興への道を歩んでいる。
しかし、同じ双葉郡には大熊町や双葉町といった、現在でも地区の大半が帰宅困難区域に指定されている町もある。
『春を告げる町』は、広野町の人々の暮らしを静かに映し出しながら、「復興とは何か?」を問いかけた映画だ。監督を務めた島田隆一氏はどんな思いを抱きながらカメラを構えたのか。話を聞いた。

島田隆一
1981年東京都生まれ。2012年、ドキュメンタリー映画『ドコニモイケナイ』を監督。同作品で2012年度日本映画監督協会新人賞を受賞。2014年には、福島県いわき市に暮らす人々を取材した、筑波大学の学生たちによるドキュメンタリー映画『いわきノート』に編集として携わっている。
──島田監督は東京出身ですが、広野町とは以前から関わりがあったんですよね。
島田隆一(以下、島田) 5年前から町立広野中学校で映像教育の講師をやっています。そこでは、生徒と一緒に広野町を舞台にした10分ほどの短編ドキュメンタリーを撮るワークショップをやってきました。
その縁で、広野町役場の復興企画課の方から「変わっていく広野町の町並みや、そこに住む人たちの思いを撮ってほしい」と言われまして、『春を告げる町』の企画が動き出しました。
ただ、話が出た時点ですでに震災からずいぶん時間が経っていましたし、難しい仕事だなとは思っていました。
──実際にカメラを回してどう感じられましたか?
島田 抽象的な表現ですけど、いまの広野町は「“始まり”が“終わる”」時期にあるのだなと。
映画は、2017年3月にいわき市の仮設住宅が閉鎖になり、残った住民が広野町へ帰るか自主避難かを選ぶところから始まりますけど、生活を立て直すフェイズに一区切りを告げ、また次の段階に向かっていくところなのだと思います。
──だからこそ「復興とは何か?」という問いが映画の中で繰り返し出てくるわけですね。
島田 震災が起きたとき、ドキュメンタリーを撮る映画監督や映像作家が多く被災地に入りました。
彼らの取材の結果、現在までの間にさまざまなドキュメンタリー映画がつくられているわけですけど、そのように震災で起こったことを記録する映画、つまり「始まり」の「始まり」を記録する映画と、「始まり」の「終わり」を記録する『春を告げる町』とでは、また違った種類のテーマが生まれるのだと思います。
──震災から時が経ち、確かに復興は進んでいますが、問題はいまだに多くあります。自主避難者に対する補償の問題もそのひとつです。
映画のなかでは、20代の頃にハンセン病療養所で働いていた広野町役場復興企画課の職員さんが「それまでハンセン病の歴史というのは、いわゆる国策で民を捨てるというか、隔離の時代ですから、その人たちは国から捨てられた民というか、家族からも捨てられた民ということで“棄民”という言葉を使って」「悲しいことに福島の自主避難の方たちも、国から賠償というか援助ももらえないから、自ら“棄民”という言葉を使う」と語り、ハンセン病患者と補償の枠から外された自主避難者の怒りを、共通した“棄民”という言葉で代弁していたのが印象的です。
島田 僕はこの映画を届けるにあたって、ことさらに政治的なメッセージを発信するつもりはありません。ただ、福島はどういう議論をしても政治的な問題が絡んでくる土地ではあります。
そんななかで僕がこの“棄民”という言葉を敢えて映画に入れたのは、原発事故という問題をいち地方都市の問題として捉えるのではなく、歴史的な文脈の中で捉え直す視点も必要であると思ったからです。
──ハンセン病の患者さんやその家族は、国による隔離政策によって様々な差別を受けましたが、国がそのことの非を認めたのは本当に最近。患者本人に対する隔離への賠償を認めたのは2001年、家族に対する差別に対しては2019年になってようやくです。
島田 つまり、国が「間違っていた」と認めるまでに何十年もかかっているわけですよね。
そうした、これまでの歴史で繰り返されてきたことの延長線上に福島の問題もある。そのことを踏まえずに、原発を語ることはできないだろうと。
あのシーンを入れたのには、そういった思いがあります。

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震災はもう他人事なのか?
──震災後、「震災の記憶をどう後世に残していくか」という議論は常にあると思います。
映画のなかでは、ふたば未来学園高校の演劇部の生徒たちが「震災」「復興」をテーマにした演劇をつくりますが、演劇の脚本をつくるにあたって各々の震災体験や復興に対する考えを語り合ううち、生徒同士が意見の食い違いから衝突しますね。
島田 映画を撮るうえで顧問の先生にたくさんインタビューしましたけど、そのなかで先生は繰り返し葛藤を語っていました。
当事者ではあるけれども、まだ高校生である彼らたちに「復興とは何か?」という問題について考えさせることは、敢えて言ってしまえば「暴力」なのではないかと。
本当であれば、悩んだり考えなくてもいい「復興」という問題に向き合わせることで、下手をしたら傷を負わせたりトラウマを植え付けてしまうかもしれない。
この演劇には、そういった危険性があるのではないかと。
──生徒同士の議論が噛み合わない場面がしばしば見られましたけど、それはやはり、原発との距離感によって状況が異なるからですか?
島田 時間と場所の両方の影響があるのではないでしょうか? 震災から時間が経過していくなかで、各々が考えていることや背負っているものも違うと思います。生徒の多くは双葉郡の出身なんですけど、同じ双葉郡でも、大熊町なのか、双葉町なのか、富岡町なのか、広野町なのかでは、状況がまったく違います。
──たとえば、双葉町は2020年3月4日に帰宅困難区域の避難指示が一部解除されましたが、町の大半はいまだに避難指示が解除されていません。震災の翌年には全町避難が解除された広野町とはだいぶ違います。
島田 そうですね。映画の中では富岡町と双葉町の映像が少し出てきます。広野町を舞台にした映画ですが、やはりその辺りは少し触れておきたいという想いがありました。東日本大震災は現在進行形の問題なんだ、という意識は働いていたと思います。
──生徒同士の議論では、そもそも震災の話をしたがらない生徒もいました。震災に関する話が一種の「タブー」になっている側面もあるのですか?
島田 タブーというよりも、ようやく「話さなくても済むようになった」ということだと思います。
震災から時間が経ち、いまの生活に慣れ、目の前の日常に追われることで、ようやく震災のことを考えなくても済む時間が増えてきた。
ただ、そのことに対する葛藤を抱える人もいます。
劇のなかでは「もう他人事なのか?」といったセリフが出てきますが、それは当事者の間ですら風化が始まりだしている状況への思いのあらわれなのだと思います。

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震災の“重荷”をどこまで子どもたちに背負わせていいのか
──風化の問題は深刻ですよね。新型コロナウイルス感染症に関する話題が大きく扱われている今年は特にですが、そうでなくとも数年前から徐々に3月11日ですら東日本大震災に関する報道の枠は少なくなっています。3月11日近辺に放送されるドキュメンタリー番組の数も減ってしまいました。
島田 確かにそうですね。ただ、「震災の記憶をどう伝えていくか」という問題に関しては、そういう思いとはまた別に、広野町の子どもたちと関わるなかで、「この問題をどこまで下の世代に背負わせていいのか?」という悩みも生まれました。
いま僕が映像教育で関わっている中学生って東日本大震災のときは、3歳とか4歳なんですよ。当時のことを考えようにも、そもそもあまり記憶がない。
でも、映像教育の授業で広野町についてのドキュメンタリー映像を撮るとなれば、震災の話は出てくるし、原発事故の話も出てくる。
そういった問題と子どもたちが向き合うことに対して、どこの段階で「もういいんだよ。ここまでは背負わなくてもいいんだよ」と大人たちが言ってあげるべきなのかは、僕も映画に出てきた演劇部顧問の先生と同様に悩みますし、映像教育をやっていくうえで大きな課題だと思っています。
──2011年からもう9年も経ち、当時はまだ生まれてすらいない世代も小学生です。
島田 この映画では、生まれたばかりの子どもとか、幼稚園ぐらいの幼い子どもたちの姿が多く描かれていますけれど、それは「震災や原発の問題は、この子たちも背負わなければいけないものだけれど、その重みを私たち大人がどれだけ軽くしてあげることができるか。それこそが大人の役割なのではないか」という思いがあるからです。
だって、子どもたちは経験すらしていないことだし、実際、他の土地で生まれ育っていれば、そこまで考えなくても済んだことかもしれない。
でも、原発の問題はいまでも残っているし、「大熊町の避難指示が一部区域で解除された」とか「双葉町は2022年春までに避難指示の解除を目指す」といったニュースは日々耳に入る。特に、双葉郡に住んでいれば。
──被災地の子どもたちは、自分の生まれる前の出来事でも震災や原発の問題と向き合わざるを得ない。
島田 映画のなかでは「復興とは何か?」という問いが繰り返し出てきますが、それは僕自身も考え続けていることです。
広野町に生まれ育った子どもたちも、故郷の問題については是非とも考えてほしい。だけれども、「彼らが抱えるものをどこまで軽減してあげられるか」という責任を負う役割は、この国に住む大人の役割なのではないかと思います。
そのことをどう子どもたちに伝えるか。それは自分のなかでもまだ模索中です。
広野町の中学校の映像教育を続けているのは、僕のような東京の人間が彼らと一緒に考えることで、そうした思いを伝えることができるのではないかと思っているからかもしれません。
(取材、構成、撮影:編集部)

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映画『春を告げる町』
3月21日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開