『his』 今泉力哉監督
2019年に公開された映画『愛がなんだ』のヒットにより、若い男女から絶大な支持を得、「恋愛映画の旗手」とも呼ばれる映画監督の今泉力哉の新作映画『his』を観た。今作もSNSを通じてじわじわと話題になり、上映館を増やすなどヒット作になっているようだ。
『his』は若手俳優の宮沢氷魚と藤原季節が、現代の日本においてマイノリティな存在とされる「同性同士のカップル」としての生き方を模索する姿を描いた映画である。
学生時代に恋人同士だった迅(宮沢氷魚)と渚(藤原季節)。しかし迅の大学卒業間近、渚は一方的に別れを告げ、去ってしまう。
それから十数年後、自らのセクシャリティを隠しながら、田舎の小さな村でひっそりと静かに生活している迅の元に、渚は突然、娘だという6歳の空(そら)を連れて現れ、しばらく居候させて欲しいと申し出る。
最初は戸惑い、拒否していた迅も、時間が経つに連れ、3人で過ごす穏やかな日常、そんな自分たちを受け入れてくれる村の人々の「やさしさ」によって、この「家族」として生きていきたいと思うようになった。
しかし、空の親権を巡って、渚の元妻との離婚裁判が始まると、性的少数者および同性カップルの子育てに偏見に満ちた視線を浴びせられるようになる。悲しい現実に直面し、しかしそれでも自分たちと子どもの幸せのために諦めないふたりが最後に選んだ道とはーー。
※以下は映画のネタバレを含みます
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あらすじだけで判断すれば、同性カップルをはじめ性的マイノリティに希望を与える、やさしい映画のように思えるかもしれない。今泉監督もこの作品を絶賛する人たちも「同性愛者が特別視されず、普通の存在として描かれる」映画が理想なのだと異口同音に訴えている。その「理想」に異論はない。だが結論からいってしまえば、『his』はその「理想」を「実現」することに失敗している。以下、理由を説明したい。
「普通の存在」に見えない主人公
田舎で生活している迅の日常は、現代の感覚から遠い。自らが割った薪でお風呂を沸かすスタイル、日中は畑を耕しながら生活している姿が描写される。炭や土を扱っても衣服や身体はまったく汚れることがなく、宮沢氷魚は相変わらず肉体労働の疲労感も感じられない美しいビジュアルのままなので、冒頭から数分を見ただけで「この映画怪しいな……」と思った。
迅が暮らす村は、都会からの移住者を積極的に受けいれて活性化を図っていたり、それなりに立派なスーパー・マーケットもあるようで、スマホ(iPhoneX)だってばっちり繋がる。迅の自宅は、やや古そうだが日常生活にはまったく支障のないこぎれいな平屋で、ガスと水道と電気は通っているし、家具や家電もちゃんと揃っている。
いや、「理想」すぎやしないか。自給自足の迅は、栽培した農作物(大根のみ)と猟師が仕留めた猪肉などを物々交換することだけで生活をまかなっている。なんと金銭的な労働はいっさいしていないことが迅自身の口から語られもするのである。
出身地の大阪に18年、その後の20年以上を東京で暮らしている私は、いうまでもなく田舎暮らしをしたことはないし、ましてや自給自足と物々交換だけで衣食住をまかなったことなどあるわけもない。しかしそんな都会派の私でもさすがににこの設定には、「そんなヤツおれへんやろ〜」(©︎大木こだまひびき)と突っ込まずにはいられないほど現実離れしていると感じる。彼はいったい誰にとっての「普通の存在」なのか?
子どもを連れ去った父親と親権を争う母親の対比
もう一人の主人公である渚はどうか。自分のチャラい夢のために一方的に迅を捨てた渚は、(のちに別の真意っぽいことが説明されるが、彼がチャラいことには変わりない)セクシュアリティを隠して玲奈(松本若菜)と結婚、子どもまで作った。
だが結局、渚は複数の男と浮気をして離婚となり、数年ぶりに子どもを連れて迅の前に唐突に現れただけでなく、なしくずし的にヨリを戻そうとする。その身勝手さ、ヒトとしてかなりアウトである。
結婚していたときは「主夫」だったこともあって家事育児は得意だが、経済力は皆無であり、そのことが娘の親権争いでもネックのひとつになっている。にもかかわらず、深刻に職探しをする様子もなく、なりゆきで見つけた仕事も「パイプオルガン職人の助手」だ。つまり薄給である。
同居するパートナーの生活は自給自足と物々交換で成り立っているうえに、親権をめぐってせっぱ詰まっている状況で、なぜその仕事(ぬるいバイトにしか見えない)なのか……映画的にはどこまでも現実離れした透明感が欲しいのだろうか。
とはいえ、不可解なのは渚の「クズさ」ではない。元妻の玲奈の他には、渚のクズっぷりに「ツッコミ」をいれる登場人物が出てこないことが不可解なのである。言い換えれば、玲奈だけが、この映画に緊張感を与えるための唯一の「壁」として過剰な負荷をかけられてしまっているのだ。
結婚して子どもまで作った無職の夫が、複数の浮気をしたうえセクシャリティまでもが嘘だったことが判明し、親権まで要求してくるのだから、玲奈の喪失感と怒りは、「そりゃむかつくわな」と理解できる。しかし、裁判にまで拗れていくことになる親権争いでは、渚のクズさへの言及はあっさりと処理され、「いじめ」のように演出された玲奈の弁護士(=玲奈、としか捉えようのない描写)による同性愛者への偏見や、さらにはキャリアウーマンである玲奈の育児能力の有無をめぐる展開へと論点がすりかえられてしまう。
離婚と裁判と仕事、さらには結婚の失敗を非難するなにかとウザい実母との関係によって心身ともに疲弊している玲奈は、ついヤケ酒を飲み過ぎるなど、育児能力に問題ありな人物として描かれている。とても不憫で哀しいことではあるが、追いつめられたシングルマザーとしての玲奈の人物像には強い説得力がある。
だからこそ、すべての元凶であるはずの渚のクズさがあっさりスルーされてしまうにもかかわらず、四面楚歌な状況におかれた玲奈の怒りだけが、迅と渚と空のしあわせな「家族」を邪魔する存在かのような「演出の偏り」に不可解さを感じるのだ。
このような「演出の偏り」が(迅から汚れのイメージが排除されていることも含めて)、『his』の全体を覆っているのである。
現実の差別を「隠蔽」してしまう
田舎の小さな村で男性二人が同居していれば必然的にうまれてしまうであろう噂話と好奇の視線。しかし迅は、自分は同性愛者だと、渚を愛していると、村人たちの前でカミングアウトする。結果からいってしまえば、この告白は村人たちの「やさしさ」によって、拍子抜けするほどあっさりと認められる。
このシーンだけを抜きだすのであれば、SNSで散見されるような「同性愛(差別)を扱いながらもわかりやすい悪者がひとりも出てこない、ステレオタイプにとらわれない斬新なLGBT映画」的な感想がでてくるのも分からないではない。
しかし、『his』の全体を覆う「演出の偏り」を念頭にいれるのであれば、村人たちの反応もまた作劇上の「ご都合主義」にすぎないとは考えられないだろうか。つまり、「同性愛者が特別視されず、普通の存在として描かれる」という「理想」に併せて問題を矮小化しているように思えるのである。
さらにいえば、今泉監督や『his』の支持者は、セクシュアリティを「認める/認めてもらう」というこのシーンや、「誰が誰を好きになろうと勝手だ。生きたいように生きろ」という猟師の緒方(鈴木慶一!)の言葉に潜んでいる差別の根深さにどこまで気づいているのだろうか。セクシュアリティを認めることも認めてもらうことも、私たちの今生きている社会にとってまったく「普通」のこととは言えない。それは「普通」になったらいいだろうけれど、「現実」はここに描かれた「理想」には程遠い。口当たりのいい村人たちの振る舞い=今泉監督の演出は、抜き難い差別の「現実」をやさしく「隠蔽」してしまうのである。
美しくてやさしい『his』は、噂話が人を狂わせた「つけびの村」が実在し、『バイバイ、ヴァンプ!』のような知的にも倫理的にも最低の商業映画が公開されてしまう現実との緊張関係を欠いている。現実との緊張関係を欠いた「理想」はただの「願望」でしかないのだが、それでも現実があまりにも酷いのだから美しいものが見たいのだ、というのだろうか。だがその美しさは、我が国の総理大臣が執拗に連呼する「美しい国、日本」と同じにおいがする。つまりは、ろくでもない。
今作の登場人物にはもうひとり、重要な役割を果たす6歳の空がいるのだが、物語の大切なポイントで、やさしい人々はこう考えるであろうと思われることを、この少女が本当に都合よく達者な口ぶりでぺらぺらと語ってくれる。そのおかげで周りの大人たちは気づき、和解し、よりやさしい世界へと導かれるのだが、監督にとってのこの子どもは、「ご都合主義」をもっともわかりやすく表現するキャラクターだと感じた(同じく離婚調停中の夫婦を扱った『マリッジ・ストーリー』の子どもの憎たらしいことよ!)。ここでは、田舎暮らしはイヤだとか、親の都合であっちこっち連れ回されることに不満を漏らすような子どもは、美しくないのだ。
映画の中の人生をご都合主義で動かさない『ムーンライト』
バリー・ジェンキンス監督『ムーンライト』は、2017年のアカデミー賞で作品賞を受賞した、同性愛にまつわる映画である。
主人公シャロンは、黒人の貧困層で生まれ、荒れた学校生活や薬物中毒の母や世間の差別からは逃れられない日常と、黒人社会での男性性の強い抑圧の中で生きながらも、子どもの頃から想いを寄せていた妻子あるケヴィンに愛を伝える、静かだが力強い魅力に満ちた物語だ。
この映画は、印象的なライティングや撮影で、視覚的には現実離れした美しさを演出しながらも、言葉少なに語る主人公が、確実にそこに生きている切実さを伝えている。それは彼が圧倒的にマイノリティな存在であると同時に、映画の中でひとりの人間が存在している切実さだ。観客はその切実さを、自身もまた切実に受け止めなければならない。だから、感情が揺さぶられる。
その誠実な切実さを、『his』は放棄し、田舎で昔から生活する人々、都会で働きながらひとりで生きている女性、両親が離婚した子ども、そして、同性愛者の若者たちを、作り手の望み通りに都合よく動く駒として扱っているように見えた。私はここに登場する人たちすべてと、映画そのものに対する不誠実さとして大いに問題を感じる。