
天保十二年のシェイクスピア ※大阪公演は中止
劇場へ足を運んだ観客と演じ手だけが共有することができる、その場限りのエンタテインメント、舞台。まったく同じものは二度とはないからこそ、時に舞台では、ドラマや映画などの映像では踏み込めない大胆できわどい表現が可能です。
新型コロナウイルス感染の予防から、大規模な集客イベントの自粛がなにかと話題になっています。作品によっては1000人規模の観客が集まる舞台も中止や延期になり、著名演出家による「演劇の死」という発言が賛否を呼んでいます。
動画配信すればいいのではという意見も聞かれますが、舞台は劇場の空間でなくては成立しえないもの。誰かの意図によって編集された視線からではなく、主人公を追うなり好きな俳優をひたすら見つめつづけるなり、自由で豊潤な楽しみができるのも、舞台の大きな魅力のひとつだからです。先月まで東京で上演されていた音楽劇「天保十二年のシェイクスピア」は、そんな舞台の特性を再確認できる作品です。
人間の業を浮き彫りに
同作は、劇作家井上ひさしによる膨大な作品の中の初期に書かれたもので、1974年に初演。2002年に、人気劇団「劇団☆新感線」演出家のいのうえひでのり、05年には日本におけるシェイクスピアの代名詞ともいえる蜷川幸雄の演出で再演されています。蜷川版では宇崎竜童が作曲を担当、今回の上演では「マツケンサンバ」の作曲などで知られる宮川彬良が音楽を手掛けており、蜷川版で助手を務めていた新進の藤田俊太郎が演出しています。
井上ひさしは、広島で被爆した父の亡霊と娘を描き映画化もされた「父と暮せば」や、宮沢賢治をモチーフにした「イーハトーボの劇列車」など、日本人の生き方について問いかける作品がよく知られていますが、「天保十二年のシェイクスピア」は、江戸時代の講談師・宝井琴凌の任客講談「天保水滸伝」の世界観にシェイクスピアの37戯曲の要素を盛り込んだ、いわば問題作。登場人物の大半が死に、悪趣味な性描写もあふれていますが、シェイクスピア作品の設定やセリフ、そして下世話さの入れ込み方の巧みで、人間のありとあらゆる業が描かれています。
舞台は江戸の末期にあたる天保年間、下総国の清滝村、向かい合った2軒の旅籠を取り仕切る老人、鰤の十兵衛(辻萬長)は、3人の娘のうち、いちばん自分に孝行してくれる者に財産を譲ることにします。代官への接待に自分たちの体を使われたことを恨みに持つ、腹黒い長女お文(樹里咲穂)と次女お里(土井ケイト)は、口先だけのおべっかで父親に取り入りますが、十兵衛が本心では跡目に決めていた三女・お光(唯月ふうか)は自身の真心をうまく表現できず、家を追い出されてしまいます。