性差別表現の炎上の背景にある、ネオリベ化する公共広報 堀あきこさんインタビュー

文=住本麻子、カネコアキラ
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 繰り返し起こるメディアでの女性の描かれ方への批判など、「性表現」に関する問題について、ジェンダー・セクシュアリティ等の研究をしている堀あきこさんにお話を伺っている本インタビュー。性表現のうちの、「わいせつ表現」を中心に扱った前編に続き、後編では「性差別表現」についてお話いただいた。

 ウェブ上で繰り返される女性の描かれ方への批判に対しては「フェミニストは自分の快・不快で議論しているお気持ちフェミだ」などと揶揄する声が聞かれることも少なくない。フェミニストはなぜ女性の描かれ方を批判するのか。そしてなぜこれほどまでに「炎上」が繰り返されるのか、その背景について伺った。

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堀あきこ
大学非常勤講師。社会学、ジェンダー、セクシュアリティ、視覚文化が専門。主な著作に『BLの教科書』(共編著, 有斐閣, 近日刊行)、『欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差』(2009, 臨川書店)。論文に「ジェンダー表現と広告・広報―女性差別と『ネット炎上』」(2019, 『ひょうご部落解放 特集メディアと人権』)「メディアの女性表現とネット炎上――討論の場としてのSNSに着目して」(2019, 『ジェンダーと法』)、「『彼らが本気で編むときは、』におけるトランス女性の身体表象と〈母性〉」(2019, 『人権問題研究』)、「〈からかいの政治〉2018 年の現在―メディアとセクハラ」(2018, 『現代思想 特集 性暴力=セクハラ―フェミニズムと MeToo』)など。

「いやらしいからダメ」ではない

――前回冒頭で、性表現に関する議論にはわいせつ表現と、性差別表現の2種類があるとおっしゃっていました。性差別表現についても、やはりウェブ上で繰り返し議論が起きています。

 フェミニズムの批判の中心は性差別表現です。性差別表現は、性的客体化、性的モノ化、性的対象化といった言葉で論じられてきました。

フェミニズムの議論と性差別表現については、小宮友根さんが具体例をあげて説明されています(小宮友根、ふくろ「炎上繰り返すポスター、CM…「性的な女性表象」の何が問題なのか―フェミニズムから学べること」)。記事では、いまの社会にある差別的な女性観と、その女性観が反映されたような女性の表現のつながりが整理されています。

性差別表現は性的な表現に限りません。性的な表現も批判されていますが、同時に、母親役割を前提とした表現や、「25歳からは女の子じゃない」というCM、女性の役割が接待モードに固定されがちといったことも批判されてきました。女性に対する価値付けや「らしさ」の押し付けという性差別が社会にあって、それをメディアが再生産することが批判されているんです。性的な表現への批判はその一部分です。

日本赤十字社が漫画『宇崎ちゃんは遊びたい』(KADOKAWA)の宇崎ちゃんを起用したポスターへの批判が起きたとき(注:デザインが過度に性的であり、献血を呼びかけるポスターとしてはふさわしくないといった批判が起きた。その後、第二弾としてカラー漫画が描かれたクリアファイルが制作されている)、「胸の大きな女の人を描くことはダメなのか」という反論がありました。そんなわけないんです。批判されていたのは、表現方法とその使い方だったと思います。

――「どこが性的なんだ?」という反論もありますよね。日本赤十字社の宇崎ちゃんも、第二弾として発表された、カラー漫画が描かれたクリアファイルに対して肯定的な意見を述べる人がいる一方で、「第一弾のポスターと何が違うのかわからない」という人がいました。

 どちらも胸の大きな女性が描かれていますよね。でも、第一弾でパッと目に入るのは胸の表現でした。胸は一般的に女性の性的なシンボルとされています。それを強調する表現、胸を目立つために使われた表現技法だったことと、献血という公共性の高い事業のPRであったこと、さまざまな人が利用する場所で提示されていたこと、そして根幹には、なぜいつも女性がアイキャッチャーとして使われるのかという問題もあります。性的だというのは批判の1つの要素で、ほかの理由とあわせて批判されているのです。

女性表象への批判は、この「ほかの理由とあわせて」という文脈の問題と、表現技法の問題がからみあっています。表現技法への批判として、身体を立体的にみせる陰影のつけ方、ポージング、困り顔、頬の紅潮、肌に張り付くような服装といった表現が指摘されてきましたが、こういう技法は性的な作品だけに使われるものではないので、使い方の問題だと思います。

たとえば、京都市交通局が作っているキャラクターの太秦萌( うずまさもえ)には、 表現技法について性差別表現という批判は向かわないでしょう。 胸を強調していないし、ミニスカートだけど、 ハイソックスを履いていて隠れている部分が多い。男性キャラクターも打ち出していて、いろいろと注意してるんじゃないかと思います。

駅乃みちか(注:東京メトロのイメージキャラクター「駅乃みちか」のこと。太ももと下着のラインがスカートから透けているようにみえるとして批判が起き、デザインが一部変更された)の場合、批判が出た後にスカートがベタぬりに変更されました。「どこが性的か」「どのように性的な演出がされているか」をクリエイターは分かっていると思います。

大切なのは、性的な意味合いを持つ表現技法がどんな風に使われているのかという文脈の問題です。成年コミックがエロいのはダメじゃない。「いやらしいからダメ」ではないんです。

文脈の違いは「お気持ち」ではない

 難しいのが、何が性差別表現なのか、「この表現は差別!」と区切れるようなものではないということです。どのように女性が表現されていて、それはどんな所で使われているかなど、社会的な背景の中に置いて批判がされるからです。

宮城の観光PR動画では(注:宮城県が「仙台・宮城【伊達な旅】夏キャンペーン2017」で、タレントの壇蜜を起用し作られた観光PR動画。「一定の役割は果たした」として公開からおよそ2カ月で配信が終了した)、亀の頭を撫でるような性的なメタファーの使用のほかに、唇のアップが批判されていました。

唇は誰もが持っているもので、それ自体はいやらしいものではありません。でも執拗にアップにしたり、光らせたり、性的なニュアンスを感じさせる撮り方がされていた。当たり前ですが、唇も大きな胸の描写も、それ自体は性差別ではありません。宮城の動画では「殿方へのおもてなし」という台詞も批判されていました。その表現のされ方、使われ方が性差別だと批判されているのです。

CMなどの場合は、こうしたたくさんの情報を総合的に見て、その文脈から性差別だと批判されています。でも、ポスターの場合は情報が少なくなります。

宇崎ちゃんの第一弾のポスターは、宇崎ちゃんがどういうキャラクターなのか、作品を知っている人にしか分からない、情報の伝え先が限定的なものでした。宇崎ちゃん1人のアップだったので、キャラクターが物語から切り離されてしまっていた。でも、第二弾は、宇崎ちゃんを知らない人も理解できる表現になっていたし、胸の表現が特別に強調されたものではなかったから、批判されなかったのだと思います。

ですが、「こっちの宇崎ちゃんは批判したのに、この宇崎ちゃんを批判しないのはおかしい」みたいな反論がきてしまう。作品それぞれの文脈によって批判が起こったり、起きなかったりすることが「お気持ち」と揶揄されてしまいます。でも、何が差別にあたるか一律に決められるものじゃないです。ゲイ男性が自分で「ホモ」ということと、当事者ではない人が「ホモ」と呼ぶことは意味が違いますよね。

議論を見渡す作業が必要

――ここまでお話しいただいた内容のいくつかの点は、これまでも指摘されていたと思います。しかしやはり「平行線」が続いてしまっているように感じます。

 議論が成立していないですよね。

ある表現を「不快である」「性差別的な表現だ」と批判することは表現の自由によって守られています。その批判に対して、なぜその表現が必要で、どういう目的で用いられているのかという反論がなされ、議論を行うことによって歩み寄れる線を考える。これが「思想の自由市場論」というものです(市民間の議論を重視し、法での規制は必要最低限のものにするという考え方)。でも、Twitterでは思想の自由市場が機能していないと思います。

その理由は、批判者への激しいバッシングです。#KuTooをはじめられた石川優実さんへのリプライがひどいですよね。女性アカウントが女性表象を性差別と批判すると、石川さんと同じように集中砲火にあっているのを何回も見てきましたし、私も体験しました。男性はなかなかああいう目に合わないですよね。

人格否定、個人攻撃がこれだけ激しいと、思想の自由市場論が想定しているような、話し合いによってお互いにとってよりよい社会にしていこう、ということが実現しない。バッシングによって恐怖を感じ、議論の場から追い出されてしまうからです。伊藤詩織さんや辛淑玉さん、李信恵さんに対するバッシングを見て、「自分も攻撃されたら怖い」と思った女性は多いと思います。怖いと感じて鍵アカウントになったり、Twitterをやめるということも議論の場に参加できないということだと思います。

――現状を見る限り、Twitterにそれを求めるのは難しいように思います。

 議論に向かないプラットフォームなんですよね。#MeTooがTwitterで起こって「声をあげてもいいんだ」という風潮ができたり、「保育園落ちた日本死ね」という言葉で社会問題を訴える場ともなったけれど、「お気持ちフェミ」(注:特定の女性表象を問題視するフェミニストは自身の快・不快を理由にしていると揶揄する言葉)みたいな批判も同時にあがってくる。表象の批判や、ジェンダーの問題を話しているのに、ブスとかババアとか個人攻撃がくるのは、しんどいものですよ。

だから、全体的に議論を見渡せるような作業が必要なんだと思うのですが、残念なことにそういうものはなかなか読まれないんですよね……。いずれにせよ、まずは思想の自由市場を確保するためにも、誹謗中傷やヘイトスピーチ、属性を貶める発言をしてはいけないというルールが守られる必要があると思います。

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