新型コロナの脅威で「安全資産としての円」が買われる理由

文=飯田泰之
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「Getty Images」より

 新型コロナウィルスの脅威が疾病自体から経済・社会への打撃へと拡張してきた。アジア圏にとどまらず欧州・中東での感染拡大をうけて、その影響は世界的な経済危機につながる可能性が高まっている。ウィルスは直接的に人命に関わる。一方、このままの状況が続くと、疾病による死者以上に経済停滞による死者の方が多くなるとの懸念さえ強まる。

 その経済被害の全容は、今後の被害の拡大や収束までの期間によって大きく変わるため、現時点での推計は難しい。一方で、その影響が欧州・米国にまで及んだことで、日本経済にとっては別種の――いわばもうひとつの危機が進行しつつある。それが円高と株安の進行だ。

 観光・イベント・飲食サービスへの経済被害は身近で、春の選抜野球大会の中止や人通りが目立って減じている街から肌感覚で感じることができる。これらサービス業への経済被害の推計については「イベント・観光自粛の経済効果」を参照いただきたい。

 その一方で、株や為替は縁遠い、自分とは関係のない話だと感じることもあろう。しかし、今後の日本経済、そして必要な経済政策を考える上でも、この円高メカニズムを理解しておく必要がある。

 近年110円台で推移することが多かった円ドルレートは3月に入って急速に円高に振れている。これと前後して、2月半ばに23,688円(2月14日終値)をつけていた日経平均株価は、2月最終週から大幅低下が続き、3月16日の終値で17,002円とひと月足らずで3割近く低下した。

「安全資産としての円」とは?

 そもそもなぜ世界的な経済危機の可能性が円高を招くのだろう。

 皆さんもニュースなどで「不安心理から安全資産としての円が買われ……」といった言い回しを聞いたことがあるだろう。テロや災害・戦禍に際して、なぜ「円が買われる」のか、誰が「円を買っているのか」、そしてなぜ「安全資産としての円」という表現があるのか? あらためて意識すると不思議に感じるのではないだろうか。

 国際的な政情・経済の不安が高まると、ドルが買われる傾向はある。これは途上国はもとより、先進国の企業・投資家にとっても国際的な取引で用いられるドルを手元に置いておきたいという心理が働くためだ。しかし、国際政治・安全保障において日本の影響力は米国のそれに遠く及ばない。無論、円が世界の基軸通貨というわけでもない。

 実は「日本円が安全資産である」という表現は、それを聞いたほとんどの人が思い浮かべる「安全資産」とは全く異なった意味で使われている。

 日本円は世界の誰にとっても安全資産というわけではない。単純化すれば、日本円は日本企業・日本人にとってのみの安全資産である。

 典型的な日本企業は、主に、日本円で社員の給与を支払い、日本円で借り入れを返済し、日本円で税金を納めている。優先度が高い支払いに円が必要となることから、経済の先行きに不安が高まったとき「ひとまず支払いを滞らせることのないように円を保有しておく」という行動が選ばれる。

 目先の支払いに不安がない企業・個人についても、自分自身が日常から価値尺度として用いている日本円で表示される資産(預金や短期証券など)に資産内容を振り替えると、様々な不確定要素のうち「為替レートの変化による損失(為替リスク)」から逃れられたような気分になるだろう。もっとも、ドルを円に換えた後で円安になることもあるため、リスクがなくなるわけではない。この効果は多分に心理的なものである。

 財務上の都合や心理的なリスク回避から、多くの先進国で海外勢よりも自国勢が国内資産を過大に評価する傾向がある。これをホームバイアスという。そして、経済状況に不安がある場合には、多くの投資家が、「安全資産としての自国通貨」を保有しようとする。12日に行われたコロナショックのパンデミック宣言、さらには13日の欧州から米国への渡航禁止令など――米国内での不安の昂進につれて一部ドル高の動きが見られることにも、米国内の企業や投資家のホームバイアスからの影響もあろう。

 このような論理から、企業業績の悪化や消費の急減といった「日本経済にとって悪いニュース」があると「安全資産としての円」が買われて円高になるという――一見すると矛盾しているような現象が生じることになる。誤解を招きやすい、または多くの人にとって理解しがたい表現なので一般ニュース等で用いるのは、個人的には、やめた方がよいと思う。

 日本は、リーマンショックや新型コロナウィルス等の世界的な問題の影響から円高になりやすい傾向が他国に比べて非常に強い傾向がある。

 自国通貨そのもの、または自国通貨建て資産(日本人にとっての日本国債のように、その価値が円で表示される資産)を買い求めるという行動を世界の様々な国・地域の投資家が同時に行うならば、円だけが高くなることにはならないように感じるだろう。

 この問題を理解する鍵になるのが、日本企業・日本人・日本政府をあわせた対外純資産残高だ。「国内の経済主体が海外にもつ資産」から「海外の経済主体が国内にもつ資産」を差し引いた額が対外純資産である。2018年末時点で日本の対外純資産は2.9兆ドルと世界一の水準になっている。ちなみに、2位がドイツの2.1兆ドル、3位が中華人民共和国の1.8兆ドルである。なお、米国は7.7兆ドルの対外純債務国だ。

 海外に多くの(対外純)資産を保有している日本は、他国に比べて、危機に際した「自国通貨を持ちたいという心理」の影響が大きくなりやすい。ちなみに、ドイツの場合は、対外資産の多くがユーロ圏内、つまりは同じ通貨を使う経済圏にあるため、対外純資産の差以上に日本よりも通貨高効果は小さくなると考えられる。

 日本円は経済不安時――より単純化すれば景気が悪くなると高くなる傾向がある。円高の経済への悪影響は多岐にわたる。大企業にとって円高は海外子会社の利益(たいていはドル)の円換算額の低下を意味する。円で勘定した企業利益が減少するのだから、同じく円で表示されている株価も低下することになるわけだ。また、生産活動に関しても、円で給料を支払う国内雇用が相対的に高くつくため、生産拠点の海外流出などにより国内の雇用環境が悪化することになる。

 日本が世界最大の対外純資産国であることで、日本の景気は為替を通じて増幅されるようになっている。図式的には不況期には円高になることでさらに不況に、好況期には円安になることでさらに好況にという具合だ。経済にこのような不安定化メカニズムがあるということを踏まえて、今後の経済政策を考える必要がある。

所得補償だけでは不十分

 コロナショックによる需要の低下は月5兆円とも6兆円とも推計される。1カ月で1年のGDPの1%にも及ぶ経済の落ち込みだ。さらにこれらの推計は2月中の状況から推計されたものが多く、実際の被害額は今後さらに大きなものとなる可能性もある。

 これに対して、現在様々な政策が模索されているが、その規模は確定しない。資金繰り困難となる企業への政府保証貸付、労働者への休業補償、さらには大幅に仕事・収入を失ったフリーランスへの所得補填といった施策は――必要十分な額ではなく、結果的に過剰になることをおそれずに実行される必要がある。

 そして同時に、これらの政策が十分に効果を発揮するためには、景気の不安定化を招いている円高への対応が並行して行われる必要がある。

 仮に、妥当な規模の所得・休業補償等が行われても、同時に円高が進行する中ではその効果は減殺されてしまう。具体的な金額や分配といった「熱くなりやすい」政策に対して、金融政策や為替政策は論争点になりにくい傾向がある。

 しかし、このような局面だからこそ、日本銀行による十分な円の供給――つまりは金融緩和の強化が求められている。緊急の経済被害対応として、財政政策が重要であることは言を俟たない。しかし、その財政政策の効果もまた、金融政策の協力によって成否が決まるという初歩的な経済政策理解を忘れてはならないだろう。

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