「正しいセックス」がわからない。『聖なるズー』動物性愛を通して見えてきたもの

文=原宿なつき
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「GettyImages」より

 「セックスの正しいあり方」って、どういうものだと思いますか? 

 「セックスは本能的なものだから、正しいも間違いもない」という考え方もありますよね。「愛情があれば自然としたくなるもの」「夫婦なのだから(または、付き合っているのだから)セックスするのは当たり前」「無理やりするのはもちろんダメ。言葉で合意がとれていればOK」……と考える人もいます。ですが、そもそも「本能」「自然」「当たり前」などと言えるものでしょうか。

 たとえば、『夫のHが嫌だった』(亜紀書房)には、著者Mioさんの「夫のHが苦痛で仕方なかったけれど、断って不機嫌になられるのが嫌で、我慢して応じていた」過去が詳細に綴られています。この本が話題になったのは、「夫婦間のセックスを苦痛に感じる人も多い」ことの証左でしょう。

 これまで夫婦になったら夫の求めに妻が応じることは当然だ、という規範も確かにあったのでしょう。それは日本社会に限ったことではありません。しかし現在、「夫婦間であっても、セックスを強要することは性暴力であり、断ったことで不機嫌になる行為はモラハラである」という認識も浸透しつつあります。

 でも未だ、「自分はセックスが辛いけれど、夫婦なんだから(付き合っているのだから)、相手がセックスを求めるのは正しいこと。ここには愛があるのだから」「自分もきっぱり断れない。夫婦(恋人)なのに拒絶したいなんて、悪いのは自分かもしれない」と思い込み、暴力から逃げられず、自分を責めてしまう人も少なくありません。

性暴力被害を受けたノンフィクションライターが動物性愛を研究する動機

 2019年の開高健ノンフィクション賞を受賞した話題の書『聖なるズー』(集英社)を書いたノンフィクションライターの濱野ちひろさんも、長い間、パートナーからの暴力に苦しめられてきたひとりでした。

 19歳から付き合い結婚したパートナーから、約10年間に渡り、性暴力も含む身体的・精神的暴力を受けていたのです。こういった経験から愛とセックスを軽蔑しきっていた濱野さんでしたが、軽蔑するだけでは傷は回復しないということに気がつき、愛とセックスを突き詰めて考える道を選びます。

 そんな濱野さんが研究テーマに選んだのは、「動物性愛(ズーフィリア)」でした。動物性愛とは、<人間が動物に対して感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を抱く性愛のあり方>(P.15)のことです。

 動物性愛者(以下・ズー)のなかには、パートナーになった動物とセックスする人もいます。動物性愛と聞いて、私が真っ先に思ったのは「それって動物虐待じゃない?」ということでした。動物は人間とは言葉が通じない。言葉が通じないのに、性的な同意をとることは不可能。それゆえ「人間が動物を一方的に性的対象として搾取しているだけでは?」と思ったのです。

 しかし本書を読み進めるうちに、境界線がぼやけてくるのを感じました。「虐待しているのは誰か」と。

動物との「対等な関係」は実現可能?

 濱野さんが研究対象にしたのは、ドイツにある世界でたったひとつしかない動物性愛者の団体「ZETA(ゼータ)」です。ゼータは「動物を愛し、危害を加えない」ことを主張している団体であり、動物をペットとして見るのではなく、「対等な」パートナーとして接することを目指しています。

 ゼータに所属するズーたちは、犬や馬を妻・夫・恋人として扱います。彼らにとって動物は家族なのです。

 ズーでなくても、ペットを飼っている人の多くは、「マロン(犬の名前)はうちの家族」とか言ったりしますよね。ただし、そういった場合のマロンの立ち位置は、「子供」であって、妻・夫・恋人ではありません。ペットは庇護すべき対象ではありますが、対等な存在ではない、というのが、多くの動物好きの共通認識ではないかと思います。

 この場合、動物の性欲は軽視されます。去勢するのが動物自身のためであると考えたり、犬が腰を振っていたとしても「やめなさい」と注意したり、「仕方ないな」と笑いつつも居心地の悪い思いをしたりするのは、「動物の性」を無視した態度だ、とも見ることができます。

 うちの実家にも猫がいて、去勢手術もしています。手術については、痛そう、かわいそうだとは思いましたが、去勢することで猫が発情を抑えて穏やかに生活できること、予防できる病気のこともありますし、罪悪感は抱いていませんでした。動物の性欲について、考えたこともなかったのです。ですが『聖なるズー』を読むうちに、動物には性欲があるし、それを人間がコントロールしたり、ないものとしたりすることは、人間側に都合のいい暴力でしかないのかもしれないと思い至り、居心地の悪い気分になりました。

 ゼータに所属するズーたちは、ほかの動物性愛者から、その倫理観の高さから、「セイント・ズー(聖なるズー)」と揶揄されています。彼らは、動物と人間は対等な存在であるという前提に立ち、対等性をどのように担保するのか、について日々悩み続けていると言います。

 濱野さんの取材したズーたちは、自分たちが「動物を性的に虐待している変態」という誤解を受ける機会が多いと知りながらも、実際には「自分の性欲を満たすため」だけのセックスには強い嫌悪感を抱いています。ズーたちはとてもロマンチックで、「愛や心の絆がないセックスには意味がない」と感じているのだそうです。

 ズーたちは、「動物が求めてきたときだけ」セックスをするのだと言います。濱野さん自身もペットを飼った経験があることから、動物が性的に求めてくるなんてにわかに信じられなかったようですが、ドイツのズーの家に寝泊まりしながら調査し、ズーが犬のマスターベーションを介助する様子を見たり、「動物から性的にアプローチされた」という日本の男性の話を聞いたりしているうちに、「動物にもセックスの欲望がある」ことに気がついたと綴っています。

<暮らしをともにする犬などの動物の性を無視していいのかという彼らからの問題提起は、議論を呼んでいいはずだ。(略)ズーたちの話を聞き、「動物にもセックスへの欲望がある」と気づかされてしまったために、私はもはやそれを無視することができない。(略)あらかじめ性を持たない「子ども」として、ただかわいがるだけの接し方のほうがよほど楽だと、正直に言えば思っている。だが、もはや、私はそのような飼い主になろうとは思わない>(P.247-248)

 動物と人間は言葉が通じません。ズーたちは、動物の意思を一方的に解釈して自分の欲求を押し付けているだけだろう、という批判に常にさらされ続けます。異種間で完全に対等になることなど不可能ではないか、とも。しかし少なくとも、本書で濱野さんが紹介しているズーたちは、言葉が通じないからこそ、いかにして対等であることができるかに心を砕いているように見えました。

 お気づきでしょうが、「対等であろう」とすることは、人間の大人同士であっても重要なことです。人間同士のセックスで、相手を尊重し対等であろうとする態度が必要とされないはずがありません。

<対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての側面を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子供を性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ>(P.104)

 人間同士は、基本的に言葉で意思疎通できます。言葉で相手の意思を確認すること、そしてセックスの最中であっても言葉で訴えることができるのですから、しない手はありません。また言葉で合意をとったとしても、「対等であろう」と相手を尊重することが大切なのでしょう。

それは、愛? 正しいセックス? すっきりしない・させない。

 『聖なるズー』は、動物性愛の実態に迫った本であると同時に、性暴力を受けた著者の「カミングアウト」に至るまでの軌跡を描いた一冊でもあります。

<カミングアウトとは、自分の究極的な問題を周りの人々に知らせることだ。カミングアウトされる側は、それまで「他人事」だった問題を、身近な当事者の「自分事」として突然提示される。その行為によって、その問題はどうでもよいものではなくなり、わかち合われるべきものになる。>(P.242)

 ズーたちが「誰を愛するかの自由」を求めるように、濱野さんは「セックスを語る自由」を求めているといいます。

 この本は愛や性についてすっきり理解できる解説本ではありませんし、冒険活劇のようなカタルシスを与えはしません。反対に、モヤモヤする気持ちが残ります。そのモヤモヤ、先ほど書いたような居心地の悪さこそ、自分自身がもっと考えなければならないことを浮き彫りにしています。

 「自分はパートナーや動物と対等だろうか」「自分の望む対等な関係とはどういったものだろうか」「そもそも対等な関係を望んでいるのだろうか」「愛があるからセックスする、と単純に言い切れるのか」「セックスやセクシャリティ本能的なもので、自分では変えられないものなのか」「愛を免罪符に相手を傷つけていないだろうか・または傷つけられていないだろうか」……簡単に答えを出せない問いに、じっくり向き合っていかなければなりません。

 旧来の価値観をゆさぶる本書は、多くの人に、「自分事」として、愛や性について考え、語る機会を与えるでしょう。

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