社会で表現することをあきらめない/相馬千秋×カゲヤマ気象台 

文=住本麻子、カネコアキラ
【この記事のキーワード】

演劇の自由と平等

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相馬千秋さん

カゲヤマ 当事者とは言えなくても、同じ集団にいたりしてパワハラの件にまったく無関係でない場合、どういう態度でいたらいいのかということを悩んだりします。実際に自分もその立場にいた経験があるので。

最近ぼくのやっている「円盤に乗る派」というユニットに日和下駄という俳優が入ったのですが、この間本番直前の稽古で、まだ作品ができあがっておらず、ぼくがピリついていたときに、彼が「ちょっといまピリピリしてますよ、よくないと思います」ということを言ってくれて、空気がよくなったことがありました。だから、トップが変わるということも大事だけど、周りの人がサポートできることもあると思います。そのために、一人でやっているわけではないという前提をいかに大事にできるか。風通しがよく、意見を言いあえる関係性をいかに構築できるかだと思います。

相馬 演出家と俳優がフラットな関係になっていくというのはとてもいいことですよね。でも一方で、どれだけ金銭的なリスクを負っているかがそもそも違う点において、完全な平等はむずかしいとも思います。わたしも芸術公社というNPO法人を主宰していますが、赤字が出たら全部わたしが負います。その点においてもわたしは主宰者であって、最終判断をする権限もあればリスクも責任も負っている。もし経済的なリスクもみんなで分担する組織ならば完全なる平等ということもありうると思いますが、その部分まで見ないと、わたしはふわっと平等について語ることはむずかしいと思います。

カゲヤマ ぼくも完全に平等に、フラットにやろうと思っているわけじゃないし、赤字が出ればぼくが被ります。ぼくは代表としてキャスティングする権利を持っているし、芸術上の判断もぼくが下しています。そうはいっても、従来俳優が関わってこなかった演出や制作などの領域に対して俳優が入ってこられるようなありかたはあると思います。役割としては分けつつも、しかし絶対的な遮断はせず、意見があればいい意味で無責任に発言できるのが理想です。そのほうが息苦しくない。これは仕組みというよりも、稽古場でみんなの話をよく聞くとかそういうレベルのことです。

その結果、絶対的だと思われていた構造が揺らぎ、そのうえで成り立つ、うまくいくということもあるのではないかと思っていますし、そうやって偶然成り立っているような関係こそ理想的です。皆が平等に責任を負うとか、等しい権力をもって判断できるようにしようとしても、結局のところ演出家は強くなってしまうし、簡単に平等にはならない。むしろ、表面上に見えなくなることで逆に演出家の権力が硬直化してしまう危険性もあると思います。

持続可能な表現を模索する

相馬 芸術というのは既存の秩序や制度、価値観に揺さぶりをかけるものです。いまの社会で大多数がいいと思っているものであっても、疑問を呈したり、違った見かたを提示したりする。それは未来に別の価値を開く可能性であり、社会の多様性を担保していくためにも必要なものです。それが芸術文化政策の根幹の考えかたで、そこに公的なお金が投資されることは当然だし、それを受益するのがとんがったアートであれ保守的なアートであれ構わない。むしろ、そこに政治的な価値判断が入ってしまうと、時の権力によって未来の多様性が断たれてしまうことになる。ですから助成金制度は、時の権力が価値判断をしない、介入できないような制度設計にすべきで、今回の文化庁による補助金不交付問題(編集部注. 本収録は、不交付取り消しの決定がなされる以前に行われた)は、この一点においてもあってはならないことでした。

カゲヤマ まさにその通りだと思います。それが社会の前提だと信じてきたのですが……。

相馬 そのコンセンサスがこの社会になかったんだなと思わされましたよね。

カゲヤマ そうなると話が変わってくるんですよ。今後公的な助成金が、本当に国にとって役に立つ芸術にしかいかなくなるという未来が、意外とありえるのではないか、そのときのために何ができるかです。

やりかたは二つあると思います。一つは、商業主義でやっていく、資本の論理に則ってやっていくという方法。それはそれで不自由なやりかたになってしまうし、アクチュアリティのあるものが生まれる期待もあまり持てません。そうすると、もう一つはアマチュアリズムでやっていくということになると思うんです。自分の食い扶持は別で確保して、余暇の範囲でできることをやっていく。そのありかたを本気で考えないといけないなと思います。いかにそれならではの可能性を見出すことができるか。

相馬 アマチュアリズムというと素人集団のように聞こえるけれど、インデペンデントということですよね。商業演劇というのはつまり、経営的な責任者が発注主体で、戯曲もキャストも決まっていて、そのなかで利益の上がる作品をつくるという前提のもと、演出家は限られた自由のなかで芸術性を発揮する。一方でインデペンデントは自分自身が発注者であり経営責任者だから、自由度が高いけれどリスクも大きい。

カゲヤマ でも自分の生活のどの位置に創作があるのかというのは、大きな問題だと思っているんです。いまは創作が大きな割合を占めているけれど、そうではなくなったときのことも考えています。

相馬 たとえば会社員をやりながら、趣味的に活動する、というイメージですか?

カゲヤマ そうですね。助成金制度が機能していれば、たとえキャリアの最初で全然お金がなくても、この先やっていけばある程度お金になっていくだろうという期待を持つことはできる。でもそれが崩壊してしまうと、商業主義によらず創作を続けるということは、あくまでも食い扶持をバイトでまかないながら、希望がなくても失望せずに気合でやっていくしかなくなってしまう。

そうなってくると長続きは難しいし、精神的にもきつい。そうすると他に生き延びていく方法を探っていかなければならなくなると思うんですよね。創作以外の仕事にも価値を見出しながら、経済的にゆとりをもちつつ、体力的にも両立していけるような方法は、まだまだ可能性があると思うし、そのありかただからこそのクリエイティビティというものは発見していけると思います。

相馬 よくも悪くも震災がアーティストの感覚を変えたように、この危機を乗り越えるべく、あいトリ後のOSもアップデートされるかもしれないですね。

カゲヤマ アップデートのしかた自体、まったく新しい方法でやらなくちゃいけないわけですよね。いままでにない着眼点から、この社会だからこそのツールを発明しなければならない。まずはその発明を模索するのが仕事かなと思います。

相馬 それはカゲヤマさんたちの世代に期待したいです。

カゲヤマ 現状のままでよいと思っている演劇人はほとんどいないと思います。たとえわずかであっても、一人一人は何かしら考えていると思いますので、話しあったり知恵や技術を交換したりしながら、協力しあっていきたいと思います。

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(企画/住本麻子、カネコアキラ)

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