布マスク2枚配布に見る「感染の自己責任化」と「補償なき/脆弱な補償による自粛の強制」

文=ケイン樹里安
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「GettyImages」より

 4月1日エイプリルフールに布マスク姿の安倍晋三総理大臣が、各世帯へ向けて布マスクを2枚配布する、という嘘のような政策を口にした。

 3人以上いる世帯はどうするのか。治療・回復にあたる医療関係者に優先的に配るべきではないのか。全国津々浦々に2枚のみのマスクを発送する莫大なコストを考えるならばより有効な感染予防対策や経済対策ができるのではないのか、といった批判が噴出しているのも当然だ。

 新型コロナウイルスの感染拡大リスクが高まるなかで、現金ではなく「お肉券・お魚券」を配るという政策案に続いて、「焼石に水」とすらもいえない「失策」と呼ぶべき政策案がまたしても登場したわけだ。

 生活保障としても、経済政策としても、自主隔離の促進としても有効な「日本社会で暮らす人びとに一律に現金を給付」という政策への希望は、またしても裏切られてしまった。

「自粛の要請」という呪文

 COVID-19(新型コロナウイルス感染症)の感染拡大リスクがあらわになってから、人々には「自粛の要請」が続けられている。同時に、感染者や「感染経路」と名指された特定の場所へのバッシングが高まっている。こうした状況においてこそ、「自粛の要請」がどういった言葉の言い換えなのか、ということについてしっかりと言語化しておく必要がある。

 自粛の要請とは、政府や自治体によって人びとに押しつけられた「感染の自己責任化」と「補償なき/脆弱な補償による自粛の強制」だと、はっきりと呼び変えられるべきだろう。

「自粛を要請」という言葉はマジックワードとして有効だ。そもそも「要請」するのであれば、それは「自らの意志でやめておく」という意味での「自粛」にはならないはずだ。

 つまり「自粛を要請」という言葉は、感染した人々、あるいは感染の可能性が高いと名指されている場所(職場、イベント会場など)に負のレッテルを貼りながら、ウィルスに感染した責任を「自己責任」として処理させる言葉なのである。

 だが、考えてみて欲しい。そもそも、知らず知らずのうちに感染し、知らず知らずのうちに感染させてしまうリスクのあるものを、完全に1人1人の「責任」において常に100%対処することは難しい。ある程度、身を守る方法があるとはいえ(手洗い、うがい、いわゆる「社会的距離」の構築・維持など)、そうした対策が、24時間365日、膨大な人びとの手によって常に適切に実施され続けられる可能性を考えれば、やはり感染防止対策として難しい部分は残り続ける。

 無自覚な感染者を含めて、あらゆる感染者の責任や、「感染経路」と名指される――なぜか満員電車は除かれる――場所の運営者や集った人びとの責任のみをバッシングし続けることは、あまり有意義だとはいえないだろう。むしろ、「感染の自己責任化」が進行する中で、バッシングが高まれば、感染したことを口外しづらくなってしまい、かえって感染拡大のリスクは高まる。

 感染拡大のリスクを高めているのは、「自粛」を要請するばかりで補償がない、あるいは、脆弱な補償しかない状況も同じである。

 現状、多くの人々は、多かれ少なかれ、生活を送るために感染のリスクを承知で働かざるをえない。衣食住や文化的な営為を含めてはじめてわたしたちの生活が成り立っている以上、生活を維持するためには、リスクを抱えてでも、安定的に対価を得る必要があるからだ。そして、生きるために働く以上、「社会的距離」の構築や維持は、多少、犠牲となってしまう部分がどうしても発生する。たとえば、満員電車や人びとが密集したエリアでの労働のように。それが現実だ。

 だが、もし当面の生活を適切に維持するための現金給付がなされていれば、わたしたちは感染のリスクをより重くみて、自分の働き方を生活の送り方を調整するかもしれない。補償さえあれば、リモートワーク/テレワークに踏み切ることもやぶさかではない企業も業種によってはあるだろう。個人事業主でも、安心して休業することも視野に入ってくるはずだ。

 その意味で、何らかのかたちでの補償が生活支援としてなされれば、経済対策としても、そして、「知らず知らずのうちに感染し、知らず知らずのうちに感染させてしまうリスク」を減らすことで、感染拡大の予防としても、意義があるといえる。使い方を限定されたもの(たとえば、お肉券・お魚券)よりも、現金のほうがより人びとの「行動変容」を促すものとしてふさわしいだろう。

 したがって、この社会における感染のリスクを減じるためにも、なされるべきことは、まず休業補償をきちんと行うと政府や自治体が明言し、実行することである。毎日の生活が当面、そして将来にわたって「ある程度なんとかなる」という確信をもてなければ、人々が「行動変容」を実行することはなかなかかなわないはずだ。

 まずは先立つものが必要だ。そうでなければ、たとえ、職場や通勤に感染リスクがあっても、わたしたちは働くことをやめるわけにはいかないし、そのために社会的距離の維持を多少あきらめざるをえない状況も残り続ける。

 だからこそ諸外国では、自粛にせよ都市封鎖にせよ、むりやり人々の快適な生活を封じる政策を実施する際には、具体的な補償とセットで議論がなされてきた。日本社会においても、困窮ゆえに「死なせない」ために(人権を守るために)、そして、感染拡大のリスクを下げるためにも、必要な議論だと思われる。少なくとも「具体的な補償」は、お肉券・お魚券・マスク2枚で済ませてよいものではない。人びとの生活と生命がかかっているからだ。

 それゆえに、「感染の自己責任化」と「補償なき/脆弱な補償による休業の強制」を押しつける「自粛の要請」に対して、わたしたちは、十分な補償がないこと(脆弱な補償しかないこと)を批判――現状のものではなく、ほかのやりかたがよいと異議申し立てをすること――したほうがよいし、政府や自治体にはそれに応答し、適切に「行動変容」を行う必要がある。こうした政府・自治体の「行動変容」が行われなかれば、先行きの見通しがたたないために、人びとは消費せず、経済的な困難が(さらに)つきまとう状況が続くのではないだろうか。

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