新型コロナ「現金一律給付」議論 日本で暮らす「外国人」を支援しなければならない理由

文=ケイン樹里安
【この記事のキーワード】
新型コロナ「現金一律給付」議論 日本で暮らす「外国人」を支援してはならないのか?の画像1

「GettyImages」より

 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は未だペースを緩めることなく続いており、日本も決して例外にはなり得ない。1日、日本医師会は会見を開き、医療崩壊の危機に瀕していると訴えた。感染拡大を防止すべく各自治体は「不要不急の外出自粛」を要請、健康不安のみならず経済不安を抱える多くの市民は補償を求めているが、1日に安倍晋三首相が発表した政策は「各世帯に布マスク2枚を配布する」というものだった。

 同じ自民党に所属するの小野田紀美参議院議員はこの発表にTwitterで驚きの声をあげ、岡山弁をまじえて批判した。

「いや、そのシステム初耳じゃしどう検索しても全然出てこんのじゃけど、ていうかこんな話一度でも自民党の会議で出た?なんで今回自民議員の必死の訴えは全然聞き入れんのにこーゆー事急に決めてするん。それ出来るんなら小切手送りゃーえーがん。何なん。与党議員って何なん。」(午後8:14 · 2020年4月1日)

 小野田議員が指摘しているのは、たった2枚のマスクを全世帯に送付する「システム」は自分たち「自民議員」すらも「初耳」であること、そして、後述するように、補償としての現金一律給付や小切手の送付を提案していた自分の「必死の訴えは全然聞き入れんのにこーゆー事急に決めて」しまう、政府への違和感と自民党議員としての存在意義をないがしろにされている事態への違和感である。

 小野田議員は総理のマスク発言の2日前、3月30日にTwitter上で、現金一律給付やそれに代わる小切手の送付における「障壁」の数々について発信していた。具体的には、政府が給付すべき人びとの口座番号を知らないこと、そして、代替案として小切手の送付を検討しても、やはり送付すべき住所の把握が困難である、といった内容だ。

 少なくとも、総理のマスク発言においては、後者の住所問題に関しては解決ないしは解決可能である前提で話されており、小切手の送付を提案している2日前の自分の発信と食い違っていることになる。小野田議員の違和感はの表明は当然だろう。

現金一律給付は「国民」に限る

 一方で小野田議員は2020年3月30日に、以下のようなツイートを連投した。その発言への批判から、署名サイトでの議員辞職を求める動きも活発化している。全文をお読みいただきたいが、本稿で特に取り上げたいのは以下の投稿だ。

「①本日コロナ対策本部があり、様々意見を述べた中で「早急な現金の一律給付」もお願いしたのですが、ひな壇の議員の方から一律現金給付を行う方法における物理的な障害についてご指摘頂きました。今の日本の法律、仕組みだと、一律現金給付には3カ月程度かかってしまう現実があるとの指摘。→続」

(中略)

「⑦いずれにしても、本日の会議でも「一刻も早い一律現金給付」「消費税減税」等を含む多くの要望があったのは事実。政府に改めて要求するべく取り纏められた案と共に、国民の代表である私達の声を実現するよう政府に強く求めます。なお、一律現金給付等は当然国民に限るよう徹底する旨も要望致しました」

「マインナンバーは住民票を持つ外国人も持ってますので、マイナンバー保持=給付は問題が生じます。」

 小野田議員の投稿は、補償なき/脆弱な補償しかないままに「自粛を要請」し続ける日本社会において、現金一律給付(および小切手の送付)が有効な政策のひとつだと訴えるものである。だが、その対象は「当然国民に限るよう徹底する」と述べ、さらに「マイナンバー(実際の投稿ではマインナンバー)」と関連づけた一律給付の仕組みでは「外国人」も含まれてしまうからこそ「問題」なのだと主張している。要するに、「外国人」は一律現金給付の対象外とすべき、と小野田議員は公言していることになる。

 この主張には、いくつかの点で「問題」がある。

 「外国人」を現金一律給付の対象から外すことは、①手間の増大、②しんどい経済状況における補償を政府が「怠る」ことは人道的にも経済的にも不適切、③結果的に適切な自主隔離の促進をさまたげる可能性があるからだ。

 現金一律給付のメリットは、文字通り「一律」に給付を行うことで給付先の選定をする手間を省略し、作業量が抑えられる点にある。「国民」と「外国人」という「線引き」をすると、このメリットは大きく減じられてしまう。

 それだけではない。そもそも、感染拡大およびそれに伴う経済的・社会的・政治的リスクや困難は、「国民/外国人」という区分によって切り分けられるものではない。「国民」であっても「外国人」であっても、「知らず知らずのうちに感染し、知らず知らずのうちに感染させてしまうリスク」をわかちもっている。

 そのリスクと感染による不利益は、給付の対象である「国民」の生活も、対象外とされる「外国人」の生活も、ともに足元から揺るがすものであることにかわりはない。適切な補償がなければ、「国民」も「外国人」も、労働においても、消費においても、「行動変容」することは困難である。それは、適切な自己隔離ないしは社会的距離の構築・維持という感染予防策を失効させるリスクを増大させることだ。小野田議員にとっては、おそらく「国民優先」の提案であったのだろうが、それは結果的に、「国民」を含めた日本社会における感染拡大のリスクを高める提案にほかならない。

 日本社会は、すでに大勢の「外国人」によって(ときに不平等・不公正な形態によっても)支えられている。小野田議員の「声」は、こうした日本社会をベターなものにしていく、あるいは、悪化することを阻止する提案というよりも、むしろ足元から切り崩すものではないだろうか。

将来に禍根を残す「線引き」

 さらに、政府として早急に対処すべき補償の中に「線引き」を埋め込むことは、将来にわたる禍根を残すことにもなる。

 日本社会には、すでに外国に(も)ルーツをもつ人びとが大勢生まれ、暮らしている。

 「日本は単一民族」という聞きなれたフレーズは否定されて久しい(小熊英二『単一民族民族神話の起源』新曜社,下地ローレンス吉孝『混血と日本人』青土社)。長い間人々が越境し、移動し続けてきた社会で「日本人/外国人」という枠で制度について語り出してしまうのは、社会の実態に即していないのではないだろうか。

 それだけではない。今回の一律現金給付の対象から「外国人」が排除される差別的な制度によって、「外国人」個人も、家族も、貧困となる可能性が十分考えられる。両親ともに外国人である子どもや、両親のどちらか一方が外国人である子どもの教育にかけられる資源が不当に奪われることで、教育格差を生み出すこともあれば、貧困が再生産されることもあるだろう。

 外国に(も)つながる子どもたちの教育格差や不平等は、現在すでに社会問題として指摘されている(金南咲季「外国につながる子どもにふれる」『ふれる社会学』北樹出版)。小野田議員の提案は、こうした構造的問題を再生産させ、むしろ押し進めてしまう制度の構築を提案するものであり、非常に問題だ。

 そもそも、1979年に日本も批准した国際人権規約の社会権規約において、すべての者の権利として、労働する権利(6条)、社会保障の権利(9条)、相当の生活水準の維持と飢餓から免れる権利(11条)、教育への権利(13条)などが、すべての者の権利として規定されており、締約国である日本は、「外国人」およびその子孫の権利を確保し、維持する必要性があるのであって、それに反する立場をとってはならないはずだ。

 ところで、補償を怠ることで経済的にも感染予防的にもリスクを増大させるという点においては、小野田議員の差別的な提案は、総理のマスク2枚発言と共通する問題を抱えているといえるのでないだろうか。

 考えてみれば、なされるべき適切な補償が、マスク2枚にとって代わられてしまえば、それもまた、「国民」であれ「外国人」であれ、教育格差や貧困の再生産へと結びついていくといえる。

 感染拡大のリスクとそれに伴う経済的・社会的不安や困難があらわになった現在。じっと耐えることも、なんとかやりすごすことも、時として必要なことかもしれない。だが、総理と与党の国会議員の「声」が具体的な政策や制度として動き始めたときに、すでに「しんどい状況にいる人々」はさらにしんどくなる可能性があるし、「いましんどくない人々」もやがてそうなる可能性が大いに開けてしまう可能性がある以上、わたしたちは声を共に批判の声を挙げる必要がある。

 感染拡大へのリスク対処としてだけでなく、人びとの不安や不満のはけ口を探すように、「感染者」「ライブハウス」「クラブ」「バー」「カラオケ」「外国人」と次々にバッシングや排除の「標的」が移り変わっていく。ネット上には「生活保護受給者」を給付の対象から外すような極端な主張もあらわれ始めている。だが、誰が給付の対象としてふさわしいのか、という「線引き」に拘泥している場合なのだろうか。ちがうだろう。確実な補償がただちに「一律に」なされるべきだ。

「新型コロナ「現金一律給付」議論 日本で暮らす「外国人」を支援しなければならない理由」のページです。などの最新ニュースは現代を思案するWezzy(ウェジー)で。